【パートナーシップ】 夫婦の対話の大切さ・難しさについて考える
こんにちは。
noteを更新するようになって、色んな人たち(主に自分と立場が近いワーキングマザーの人たち)の記事を最近は良く読んでいます。
その中で、momomiさんのこのnote記事をきっかけとして、夫婦や家族の幸せな形を考えるにあたって対話をすることって大事だよなぁと考えていました。
子どもがもう少し大きくなってくれば子どもとのコミュニケーションも大事になってくるわけだけど、私の娘はまだ1歳8ヶ月で、対話というほど話し合いをするわけではない。
だから、今回は夫婦の対話、という部分にフォーカスを置いて過去の経験をもとに色々と考えてみました。
そんな話。
プラトン的対話を大事にしたい
大学生の頃、副専攻が宗教・哲学だったので、有名どころの哲学書はちょこちょこ読んでいたりしました。
私は好き嫌いが結構激しいので好きなタイプの哲学者の文章しか読んではいなかったのだけど(なので近代哲学とかのことはあまり聞かないでください)、古代ギリシャ哲学は私の元々の考え方にも合致していたので結構好きでした。特に好きだったのは、プラトン。
その影響で対話の大切さ、というものを当時は良く考えていました。対話は大事だし、対話を通じて物事を理解していくのが基本だと私も思う。でも、それって簡単なようでいてものすごい難しいよなぁって。
それは人間や世界の理を理解する、というためだけでなく、身近にいる人たちを理解するという部分でも同じ。
会話をたくさん重ねているようで、密にコミュニケーションをとっているようで、すれ違っている事ってよくある。対話って本当に難しい。
アメリカ時代の元カレの話
私がアメリカにいた時に付き合っていた元カレの話でもしてみよう。
彼は同じ大学の博士課程で先端医療の研究をしてた人です。大学院生向けオリエンテーションみたいなもので知り合って、なんとなく馬が合い、付き合うこととなりました。
その後、私が性犯罪の被害に遭うまでは、とても順調で幸せな日々を彼とは過ごしていました。
私は彼の研究内容や、研究に対する姿勢などをとても尊敬していたし、彼も私の研究については興味を示して面白いと思ってくれていた。決してみんなを引っ張るリーダー!とかムードメーカー!というタイプではなかったけれど、物腰柔らかく、いつもニコニコしていて、ウィットに富んだジョークもたまに言ったりして、とても成熟した人だった。
私のことをとても大切にしてくれて、日々のちょっとした言動から思いやりや気遣いを感じることが出来た。本当に人間として素敵で尊敬すべき人でした。
なんだけど、私は多分心の何処かで、完全には通じ合えてない感覚も覚えていた。彼は日々の行動やありふれた日常の仕草などから気持ちや思いやりが伝わってくるタイプではあったけど、自分の奥深い所にある考えや感情などを率直に言葉として表現する事は苦手だった。なので、例えば将来どうしたいのかとか、私たちの関係性のこととか、不安に感じていることとか、そういうものをこちらが知る術があまりなかった。
もちろん、そういう質問を投げかけてみることはあった。でも、最終的には要領を得ないというか、核心には触れられない感じで終わる。これは当時の私が幼かったことも一因だと思う。自分自身の信念ややりたい!こうしたい!という気持ち、こだわりが強かったので、結構相手に対しても押しが強くなってしまったというか、ありのままを受け入れるだけの土台が完成してなかったと言うか。彼は、私を傷つけるような事や意見が激しく食い違うような事は言いたくなかったから、本心を言うことも避けていたのかなと。
なので性犯罪被害というものが引き金となって、関係性がどうも上手くいかなくなり、別れるに至ります。でも、事件自体は結局きっかけに過ぎなくて、それを二人で対話して乗り越えるだけの関係性がお互いに築けなかったのが、別れの根本原因だと思う。
彼との別れはかなりショックではあったけど、今となっては必然だなと思ってる。遅かれ早かれ上手くいかなくなる時は来たのだろうと思うから。
対話が持てる人と出会うということ
そんな元カレとの経験があったからこそ、結婚相手を改めて探す時は、「話し合いが持てる」「対話が出来る」という部分が私にとっての最重要の条件だった気がします。
でも、これは本当に超難題だった。
というのも、コミュニケーションにおいて本当に「対話ができてるなぁ」と思うためには、双方が満足できるレベルの話し合いでなければならない。一方が良いなぁと思ってても、それが相手の手腕によるもので相手は消化不良を起こしているようなら、そのバランスは不均衡になってしまうから。
私自身、人の話を聞くということに関しては割と得意な方です(というか、自分の話をせずに相手の話を引き出すコミュニケーション法で今までかなりの場面を乗り越えて?きた)。なので、ありがたいことに私に対して好意を抱いてくれる人は多くいました。自分の話を丁寧に聞いて掘り下げてくれる人のことを人は好きになりやすいようです。
が、こちらはそれによって疲れることもあったりして(相手にもよるが)、会った後にこの人とまた会いたいなぁ話をしたいなぁとは中々思えませんでした。
なので、夫と初めてあったときに、自分の話もそこそこに、私のこと(考えてること、価値観、結婚観など)をしっかりと聞くような質問を投げかけて来ることにとにかくびっくりしました。そして、それを否定するでもなく、自分の価値観と照らし合わせて共通点を見出したり、違いについては掘り下げたりしてくれて、「これだ!」となった。
(ちなみに、どうやって出会うに至ったかはこちらでまとめてます。プライベート色強めの経験談なので有料にしてありますが、無料部分だけでも多少は参考にはなるかと思います)
後々になって聞いたことなんだけど、夫もことばで伝えることやコミュニケーションというものをものすごく大切にしている人でした。
彼はがっつり理系ながら海外志向もあって海外の大学・大学院を卒業しています。その理由として、彼はこんな事を言っていた。彼の分野では言葉によるコミュニケーションがそこまでなくても学問としては成立する(ので、日本でも海外でも専門分野自体の勉強は変わらない)。でもその後それを仕事として活用していく中で、専門分野をどんな人にでも説明できる様にするためには、そして世界中の人を相手に仕事するためには、英語力・説明力が共に必須。だからどちらも身につく海外の大学に進学した、とのこと。
なるほどなぁ、と思いました。
前述の元カレもアメリカの大学院で研究する理系の人、という部分は同じはずなんだけど(分野は大分違う)、元カレはアメリカ人なのでアメリカにいるのが当然で、海外志向という訳ではなかった。そして元カレは卒業後ポスドクには進まなかったけど、アカデミアに限りなく近い世界に残った。そうした違いもあるのかもしれない。
対話への志向と、レベル感と、継続する努力と
こんな事をいうと、元も子もない感じだけど、結局は相性も大いにあるんだろうなぁと思う。というか、それに尽きるのかも?
大学生の頃に、こちらの本の中にあるLove's Bondという章を授業で読んでディスカッションをしたことがあった。
メインテーマは恋愛で、恋愛というのは市場と同じように「より良い条件の人が現れたら乗り換える」べきなのか、という問いが盛り込まれていてクラスが大いに盛り上がった記憶があります。
今の婚活市場なんかを見ていると、条件の需要と供給で、自分が得られるより高い条件でマッチする…という考え方で臨む人も結構いる。
その「需要と供給」と「相性」は似て非なるものなのだろうか?それとも本質としては同じもの?
私自身の話に戻すと、元カレの場合は、言葉に出来ないものは言葉にできないまま不可侵領域に置いておいて大切にしたいタイプなのだろうと思う。ある意味で芸術家のような人というか。それに、好意などは行動から示せているからそれで充分とも多分思っていたと思う。
対して私はどんなに表現が難しくあろうとも、言葉にしようと思ってしまう。なんとかして表現出来ないものか、伝えられないものかと模索する。(多分だからこそ文学という分野に惹かれたのだろうと思いますが。)
そして、相手に対しても言葉で表現して欲しいという気持ちがある。どんな本心でもいいから、伝えてほしいと思う。
これは、ものすごく大雑把にまとめると、ハイコンテクスト文化、ローコンテクスト文化の違いのようなものかもしれない。
文化によっても違うけど、個人によってもかなり違う。実際、元カレはアメリカ人だけどハイコンテクスト気味だったし、私や夫は日本人だけどローコンテクスト気味。
こうしたコミュニケーションにおける志向の違いと、話をする中での内容の質(どこまで掘り下げた部分までを言語化して話し合えるか)のレベルが双方バランスが取れているかという部分、あとはもちろんお互いに対話を諦めないという姿勢を持ち続けられるかという部分とが合わさって初めて、満足のいく対話を重ねることが出来るのかもしれないなぁと感じました。
夫婦関係においては、これからのことは分からないけれど、現時点ではとてもとても満足のいくコミュニケーションが取れてるなと感じています。なので、ひとまずはこの質を維持できるように意識し続けていきたいなと思ってる。
おわり。