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歎異抄を読む 第三条

善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

歎異抄 第三条

「子連れ狼」というテレビドラマがあったことをご存知でしょうか?
1970年代に高視聴率を誇った時代劇で、萬屋錦之介が主演、その他、佐藤慶、石橋蓮司、名古屋章など錚々たる俳優の方々が出演されていました。3シーズンにわたって放送され、3シーズン目の主題歌は、しとしとぴっちゃん しとぴっちゃんと、情緒を誘う児童をバックに、橋幸夫が歌ってました。
「子連れ狼」は、元は小池一夫原作、小島剛夕画で漫画アクション連載の劇画で、若山富三郎主演で映画化もされています。笑福亭仁鶴が「大五郎、3分間待つのだぞ」と、主役を扮して出演するインスタントラーメンのCMも好評を博しました。
「三途の川の乳母車」の言葉通りに、主人公、拝一刀が一子、大五郎を乗せた、「子貸し、腕貸し、つかまつる」という上りを立てた乳母車を押して街道をゆく光景は、瞼に焼きついて忘れられません。
仏に会えは仏を斬りと、ひたすらに刺客道を歩む父と子。

なぜ、「子連れ狼」の話を持ち出すのかと言えば、廣瀬杲、「廣瀬杲歎異抄の心を語る」で、触れられていたからです。
「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。冥府魔道をゆく親子に果たして極楽浄土への道は開けるのか」。
廣瀬先生いわく、「子連れ狼」の予告で、このセリフが名ナレーター芥川孝行によって語られていたとのこと。
これを読んで、「子連れ狼」と歎異抄、重ねてみると、とても味わい深いものがあるのではないかと思えてきたのです。
そういえば、二河白道という言葉も「子連れ狼」にありました。
考えると、「子連れ狼」には、相当、仏教の言葉が挿入されています。原作は、実家に置いてあってすぐに確かめることはできないのですが、萬屋錦之介演じる拝一刀は、確かに、一切の感情を消失した凄みがありました。
「子連れ狼」のエピソードのひとつに、大道芸に身をやつした浪人から「刺客道」を捨てろと拝一刀が諭されるものがあります。
幼子を連れて、金をもらって人を斬るなどもってのほかの所業。すぐに刀を捨てろ、若しくは大五郎を置いて、冥府魔道だろうがどこだろうがひとりで行けと説得されるのですが、拝一刀は聞く耳を持ちません。業を煮やした浪人は、自身の命を賭け、拝一刀に勝負を挑みます。元々、この浪人も腕に覚えがある強者です。そして、この浪人は拝一刀に斬られ死んでしまいます。
「立って半畳、寝て一畳、食らう飯は一日一合半」。この浪人の口癖であり、信条です。
子どものために、人殺し稼業から足を洗え、というのは、善人の言葉でしょう。
どんないきさつが過去あろうが、善悪の道理に生きろとは、人としての分別というものでしょう。しかし、拝一刀のゆく冥府魔道とは、善悪の道理や分別でははかれないです。
拝一刀を諭し、道理を説くひとは、この浪人に限りません。そういった人たちの声は拝一刀には響きません。拝一刀の心には届かないのです。その所以はいかにと、説明することもできません。なぜなら、私たちは拝一刀の冥府魔道を語る言葉を持たないからです。それは、不可称、不可説、不可思議というほかありません。どんな言葉を使って説明したところで、善悪の道理、分別の域を出ないのです。拝一刀の前では、あっけなく斬られてしまうのです。

しかるを世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

悪人ですら浄土へ生まれ変わるんだから、どうして善人が浄土へ生まれ変われないことがあるのか。道理のあるように聞こえるが、これは仏の願いに沿わない。そう親鸞聖人はおっしゃったと唯円さんは残していらっしゃいます。
自身の行い、言葉、心を善として、清く正しく美しく生きることを旨として、励んで功徳を積む人は、自力作善のひとと言われます。
世間では、素晴らしい、偉人だ、立派だと讃嘆、賛辞に包まれるような人。それが自力作善の人です。そんな人間は「弥陀の本願にあらず」と親鸞聖人はおっしゃるのです(おっしゃったと唯円さんが伝えています)。

しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

この後、「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」と続くのは、自力から他力への転換について具体的に示されたものです。
「いづれの行にても生死をはなることあるべからざる」とは、自力作善のひとも当然ひっくるめた言葉です。自力である限り、どのような善行、良い振る舞い、修行を重ねても、われわれは迷い、苦しみから逃れることはできない。なぜならば、どんな思いも行為も、自力である限り、「煩悩」の域を出ないからです。
「煩悩」とは、欲望のことです。
食欲、物欲、睡眠欲、性欲、名誉欲、欲望にもいろいろあります。むしろ、生きている限り、私たちは欲望そのものです。
欲望は満たされても、それは束の間の愉楽。
いつも満たされるとは限らず、裏切られることもある。
満足と不満の間を常に漂い、満足からは慢心や怠惰が生まれ、不満からは怒り、悲しみ、妬み、怨みが生じる。
欲望の働くところ、そこにはいずにせよ、安心や平穏はないのです。
それは、一切皆苦の世界です。
その世界を欲望の流れのままに漂うしかない。それを諸行無常と呼びます。
仏の教えとは、一切皆苦、諸行無常からの解脱を試み、己が仏となるための教えです。
そこで、自らの力を頼み、自らを仏となろうと切磋琢磨することが自力です。そこには不思議はありません。不思議は自力のこころをひるがえし他力をたのむところにあります。

他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。

このくだりで言われる悪人とは、善悪で評価、判断されるものではありません。なぜなら、善悪という評価基準も煩悩の働きに他ならないからです。このあたりのロジックは、第十三条で、唯円さん自身が語っていただいています。「仏になりたい」と思っても、その思いが自身の願望を成就することなら、それも自力の域を超えません。つまり、他力を頼む悪人は、自分の欲望、その働きを直視し、善悪の評価基準からも離脱している者です。
「諸法無我」。悪人とは、そこに仏を見る者です。
悪人だから救われるのではありません。それは第三条で、親鸞聖人の言葉として、正に語られているのです。

「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。冥府魔道をゆく親子に果たして極楽浄土への道は開けるのか」。

この問いの答えは自ずと明らかです。



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