見出し画像

歎異抄を読む 親鸞式弟子育成法を味わう

「念仏を称えさせていただいても、天にも地にも踊りあがるようなよろこびがわいてこない、早く浄土へまいらせていただきたいという気持ちもわいてこない」
これは親鸞聖人の教えを受けた者として、とても深刻な問いですと、前回お話をしました。
それに親鸞聖人はどう反応したのか。
そして、どのように唯円さんを導いていくのか。
今回はそのお話です。
前回は、この唯円さんご自身の問いであり、同じように、親鸞聖人の教えをうけた人たち、さらに、その人たちから教えを受けた人たちにも共通する問いであり、今、歎異抄を読む私たちに向けられた問いでもある、というお話をしました。
それだけ、この唯円さんの問いは、親鸞聖人の教えに差し向けた根本的な問いだと思います。それは、南無阿弥陀仏と称える人なら、誰もが感じることだと思うんです。
だから、これだけの問いを師である親鸞聖人に向けたというのは、相当の覚悟だったんでしょう。聖人と差し違えるほどの覚悟でしょう。
それまで、唯円さんは、おそらく親鸞聖人の書かれた教行信証も、ご消息も、ご和讃も、しっかり詠んでいたはずですから。
そこに、しっかり、天に地に躍り上がるんだ、浄土へ参らせていただく有り難さがわきあがってくるんだって書いてある。
自分は今、その、親鸞聖人の教えを疑うようなことを言おうとしているわけなんで、生半可な気持ちではなかったはずですよ。
それだけの覚悟と気合いで向き合ってくる弟子に対して、親鸞聖人はこうこたえられます。
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」
オレもさぁ、前からおかしいなぁっておもってたんだよ。唯円もおんなじように思ってたんだな。

いや、オレもさ、念仏称えてもさ、別に嬉しくもなんともなんなくてさ、よっしゃあ、浄土へ行って仏になるぞって、そんな気に全然ならないんだよ。
そうか、唯円、お前もそうなんだ、オレといっしゃじゃねえか。

「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」

すごいセリフですね。
これは、なかなか出ないですよ、こういうことは。

聞いた唯円さんは、肩透かし喰らわされたって感じですね。頭に上り詰めていた血が一挙にぬけていくような、身体中に張り詰めていた緊張が一瞬で溶けてしまう、そんな感じ。

この場面、親鸞聖人がどんな表情をされていたのか、その親鸞聖人をどういう思いで、唯円さんはご覧になっていたのか。

カール・ロジャーズ、アメリカのカウンセリングの神様のような人が、
カウンセラーは3つのことをきっちりやれば、カウンセリングは成功するって、言われてます。それは、
自己一致
受容
共感
この3つです。
自己一致っていうのは、ウソをつかない。
受容は、相手を受け入れる。
共感は、相手に寄り添う。
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」
ロジャーズのいっている、受容、共感、自己一致が全部揃っているじゃないですか。

このあと、第九条は親鸞聖人の言葉が続いていくわけなんですが、おそらく、実際は、親鸞聖人と唯円さんのやりとりがあったはずです。それを唯円さんは書いてない。自分のセリフは消している。それは必要ないとかんがえられたんでしょうね、たぶんね。
でも、今となっては、唯円さんがどんなセリフを吐いたのか、あるいは反応したのか、どんな顔して親鸞聖人と相対していたのか、わからない。
わからないですね。
でも、親鸞聖人のおっしゃる言葉の間には、明らかにスキマがあります。そのスキマは、もともと唯円さんのセリフがあったところですね。
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」
このあとに続くのが、
「よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。」

よくよく考えたらさ、天に踊る、地に踊るほど喜んでいいことなのに、喜べないってことはさ、阿弥陀さんはますます往生は決まったって思ってらっしゃるってことだ。

今並べた二つのセリフの間には、何かしら、スキマがありますよね。

唯円お前もそうだったのか、オレもそうなんだよっていった後、よくよく案じてみたらという間には、唯円さんが何かしゃべったのか、あるいは、唯円さんの様子を観察するための間があったのか。

この二つのセリフは、唯円さんの問いに対する答えではないですから。
唯円さんへの応答として、親鸞聖人は、先ずは共感し、次に、よくよく案じてみれば、これも、唯円さんへの回答にはなっていないですね。
そういうオレやお前だから、浄土へ迎えとってやろう、阿弥陀さんはそう思ってくださるんだ、そうおっしゃるんですね。

歎異抄を読む限り、親鸞聖人のおっしゃり方は、先に結論をおっしゃって、そのあと、そのゆえはというふうに、理由をおっしゃる。そういう話し方をされていますね。これはどのくだりを読んでも、結論をいって、理由を述べる。

ここでも。そうですね。結論を先におっしゃっています。それは、つまるところ、唯円さんがほんとうに確かめたいのは、こんな私でも往生できるのかってこと。
往生できないんじゃないか、その不安は、念仏称えてもおどりあがるようなよろこびがわいてこない、はやく浄土へ行きたいとも思わない。
その唯円さんに対して、親鸞聖人は、共感を示して、唯円さんの問いの核心に応える。
一見、唯円さんの問いにストレートに応えていないように見えるけど、そうじゃない。
親鸞聖人は、ここで、唯円さんの問いを明確にして、唯円さんの問いを確かめていらっしゃる。
なぜ、唯円さんが問いをぶつけるのか、その動機を確認し、唯円さんがほんとうに気になってる、不安に感じているところに応えていらっしゃる。
それを踏まえたうえで、唯円さんの問いに応えられる。

よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為なり。

ここが、唯円さんの問いへの直接的な応えですね。
親鸞聖人は、唯円さんから質問されて、すぐに「それは煩悩のせいだ」と応えていない。
唯円さんに共感を示し、自分事として問いを引き受けて、唯円さんの悩みの核心を確かめられる。それを踏まえて、回答されていらっしゃる。

この応答に、「親鸞は弟子一人もたずさふらふ」の実際が示されていますね。

この後、第九条は、煩悩についての聖人の説明が続きます。
このくだりも味わい深いところなんですが、それは、別の機会に。

第九条について、音声で配信しています。聞いていただけるとありがたいです🙏


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集