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唯円さん、親鸞聖人に素っ裸にされる〜歎異抄 第十三条(2)

歎異抄 第九条、第十三条には、親鸞聖人と唯円さんの会話が記載されています。
どちらの条にも、親鸞聖人が唯円さんをどのように指導されたのかをうかがえる、興味深いくだりです。
第九条では、唯円さんのお悩みに答える相談形式での会話が繰り広げられていました。苦悩する唯円さんに寄り添う親鸞聖人を感じられるくだりです。そこでも、おそらく唯円さんにとって予想すらしなかった聖人の言葉があります。
この第十三条でも、親鸞聖人のお人柄がうかがえる会話が展開されます。
それでは、原文を味わっていきましょう。

またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかと、仰せの候ひしあひだ、さん候ふと、申し候ひしかば、さらば、いはんことたがふまじきかと、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしと、仰せ候ひしとき、仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふと、申して候ひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。

歎異抄 第十三条 

一読して、親鸞聖人の言葉に衝撃を受けるのですが、この点はのちのち触れるとして、この会話の前にも、唯円さんは次の親鸞聖人の言葉を引かれています。

卯毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし

ここは、別稿でも考えたところですが、そこでは宿業の働きによって、さまざまな思いや考え、気持ちが生まれ、それらに対して善悪を弁別する心の働きがある。その弁別機能も宿業の働きだと整理しました。
親鸞聖人と唯円さんの会話について、唯円さんがまとめていらっしゃるところも、親鸞聖人がおっしゃる宿業を前提としたものでしょう。「われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて」とは、「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」という、唯円さんご自身の言葉の反復です。
ただ、それに続けて、「願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざること」と書かれているところに、話が飛躍しているのではないかと感じます。なぜ、ここで、願の不思議とおっしゃるのか。

あらためて、会話の顛末を読み返してみます。
「唯円、おまえ、オレのいうことを信じるか」
「もちろんでございます」
「だったら、オレのいうとおりに逆らわないことはないんだな」
「つつしんでおっしゃるとおりにいたします」
ここで、親鸞聖人が唯円さんに念押しされているところは、次のセリフの前フリでしょうが、それをわざわざ残してここに記された唯円さんの書きっぷりは、他の箇所、特に師訓篇とは異なっています。師訓篇では、それこそ、肝心かなめのところだけをカットして記されていた唯円さん。それなのに、この第十三条で親鸞聖人の念押しを残したのは、次のセリフの臨場感を保持したかったからなのでしょうか。それとも、何か唯円さんご自身、弁解されたい気持ちがあったゆえなのでしょうか。
第九条と読み比べてみると、第十三条の会話は唯円さんの編集が加えられず、親鸞聖人と過ごされた時間の一断面を、そのまま描写されているような気がします。

「それでは、人を千人殺してこい。それができれば往生は決まりだ」
「仰せにはございますが、一人たりとも私の器量では殺せるはずはないと思われます」
「だったら、どうしてこの親鸞の言うことに逆らわないって言うわけ?」
このやりとりだけを抜き出すと、弟子いじめのように聞こえますが、もちろん唯円さんは親鸞聖人のパワハラを訴えているわけではありません。ただ、ここでの親鸞聖人のセリフは、人によってはそういう捉え方をする人もいただろうし、弾圧するには好都合のセリフにもなりえるものです。あの宗派は危険だというふうに見られてしまうおそれもあります。現に、同じ法然聖人の血脈である筈なのに、浄土宗諸派の多くからは、浄土真宗は異端視されてきた歴史があります。なぜ、浄土宗〇〇派ではないのか。親鸞聖人は宗を建てようとされなかったにも関わらず、浄土真宗として現に教えが継がれていったのか。

話を戻します。

「人を千人殺してこい」、そう言われて、唯円さんは、まさか、そんなことおっしゃるなんてとびっくり仰天されたんではないかと思うんですが。あるいは、親鸞聖人であればどんな事もおっしゃる方だと、案外、冷静に受け応えされたのかもしれませんね。
ただ、「だったらなんでオレに逆らわねえなんてこと言うんだよ」と詰め寄られると、さすがに困惑されたんじゃないでしょうか。
私には、かつてのビートたけし、たけし軍団の関係が思い起こされるのですが、唯円さんはご自身と聖人との師弟関係を具体的に、このくだりで残したかったのだろうと感じます。
「弟子一人ももたず」とおっしゃっていた聖人が、実際に、唯円さんにどのように接していらっしゃったのか。聖人がそのようにおっしゃっていたとしても、唯円さんご自身は、聖人の弟子であると自認されていたはずです。
あるいは、自分だからこそ、親鸞聖人は、他では滅多に口にされないことをおっしゃってくださったのだと、親鸞聖人の弟子であることを誇りに思うからこそ、この会話を記されたのではないでしょうか。

唯円さんが定説のとおり、河和田の唯円さんであるというのは、「たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」という親鸞聖人のセリフも傍証となるのではないか。
かつて荒くれ者の唯円さんだからこそ、おっしゃったセリフではないのか。
これに対する唯円さんの「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と応えたセリフは、とても荒くれ者のものとは思えません。しかし、この落差、あるいはギャップに照らしてこそ、こそ、その後に続く親鸞聖人の教えの意味が照らされてくるのです。
「さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」
ここに、第二条の冒頭が響いてきます。

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

歎異抄 第二条

かつて、唯円さんも「おのおの」の一人として、命がけで、はるばる関東から京まで聖人をたずねていったのです。何のためにと言えば、往生極楽のためです。
命をかけるほどひたすらに往生の道を求める唯円さんであれば、そのためなら何だってできるはずだ。では、なぜ、「この身の器量にては」なんて受け応えをするのか。
唯円さんの困惑も、自身が計らずも応えてしまった「この身の器量」にあったのでしょう。
それは、唯円さん自身が、ご自身をそうだと思い込んでいることにすぎない。今の自分には一人だって殺すことはできないと、そんな人間ではないと思っているのにすぎない。仏道を歩む者として、あってはならないことと思い込んでいるにすぎない。親鸞聖人に出会う以前の荒くれ者であったままなら、どうだろうか。
「これでわかっただろう。なんでも自分の心にまかせてできるんだったら、往生のために千人、人を殺せとオレがいったら、すぐに殺すことができるはずだ。ところが、(今の唯円には)一人でも殺す業縁なんてないから、殺さないだけなんだよな。わが心が良いから殺さないってことじゃないんだな。また、殺すまいと思ってても、百人、千人の人を殺すこともあるんだよ」
(今の唯円には )は、私が加えたもので、原文にはありません。あえてこの言葉を加えたのは、仏道に入る前と現在の唯円さんを重ねてみると、唯円さんがこの第十三条では、あえて、ご自身の編集を加えず、親鸞聖人との会話をそのまま記された意図がわかってくるからです。親鸞聖人の前で、弟子たらんと殊勝に振る舞うご自身の姿が、敬虔な仏弟子たらんと演じる自分の姿が、どれほど虚しいものかをあえて示そうとされたのです。
また、親鸞聖人によって、その自身の姿が照らし出される光景を伝えたかったんだと思います。

われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。

親鸞聖人によって照らし出されたご自身に対する深い感慨が感じ取られるところです。
ひたすら自分では弥陀の本願を信じていると思い込んでいるが、それも自身の宿業が作り出す思いに過ぎない。阿弥陀如来を信じていると言いつつ、真実は、阿弥陀如来が助けてくださることを知らないのだ。そのことを親鸞聖人は教えてくださった。

であれば、唯円さんご自身も、善悪の宿業を心得ざる者であったということになります。
ここでも唯円さんは、異義者へ向けた刃をご自身でも受けていらっしゃるのです。

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