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唯円さんの心理学入門〜歎異抄 第十三条(1)

弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。

歎異抄 第十三条

「悪」について、ふたたび

「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」(第一条)、「罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり」(第七条)、そして、「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり」とまで、はっきり親鸞聖人がおっしゃっていらっしゃったのであれば、過去働いた悪事について罪の意識に苛まれる必要はないし、どんな悪事を働こうが気にしない。
まず、そう考え、振る舞うひとがいる。このひとを「本願ぼこり」という。この「本願ぼこり」のひとに対して、そういうアミダさんの本願にあぐらをかくような奴らは往生できるはずがないと非難しているひとがいる。この「本願ぼこり」と非難する人に対して、唯円さんはそれは親鸞聖人の教えとは異なると指摘されます。本願を疑う、善悪の宿業を心得ていないとおっしゃっているのです。
第十三条は、
・本願ぼこりのひと
・本願ぼこりを非難するひと
この二つをきちんと整理しないと、唯円さんが何をおっしゃりたいのか、よく飲み込めません。
ここで問題となっているのは、「悪」です。
第三条と関連してくるところですが、第三条は、直には、唯円さんが信心を起こされた経緯が語られているくだりであり、悪人が往生の正因と親鸞聖人がおっしゃるのは唯円さんひとりのための言葉です。このあたりは別稿に書きましたので、ここではこれ以上触れません。
(ご参考)

https://note.com/preview/n46db192f3845?prev_access_key=73de4196ea07fa973227ab3dc84437f9

生まれ変わり、業の報い

ここで、唯円さんは、「宿業」という概念を持ち出してこられている。第十三条を読む上では、この「宿業」をきっちり押さえておく必要があります。
もともと仏教には、業、即ちカルマという言葉があり、これは行為を意味します。また、行為の結果も含め、業報、業による報いも含みます。善因楽果、悪因苦果と言われるように、良い行為、悪い行為には、必ずその行為に応じた報いがある。
宿業とは、この業に、輪廻が重なった言葉です。輪廻とは、われわれは生まれ変わり死に変わりして、六道四生を巡り続けているという考えです。前世、前ゞ世、前々前世・・・と、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人と六つの世界を、胎生、卵生、湿生、化生と四つの形で生まれ変わり、巡り巡っていく。その生まれ変わりに、その世界での業報を背負って次の世界に生まれ変わっていく。それが宿業。前世での業の報いを現世で受けること。現世の私は、前世の報いってことですね。
今私は幸せだと感じるなら、それは前世で行った善行の結果であり、もし、不幸だ、生き苦しいのなら、それは前世での悪業の報いを受けているんだと。いずれにしても、われわれは業報に繋ぎ止められながら、来世の楽のために、生きている間、善行にひたすらつとめることが大事になってくる。
しかし、仏教は、この業の連鎖や輪廻から離脱するための教えです。
生死出離という言葉があります。仏教は、生死を離れる、これを解脱ともいいます。解脱し、涅槃に至る。涅槃とは、もはや六道に生まれ変わることがない、一切苦から解き放たれた状態です。阿弥陀仏の浄土も、輪廻から離れたところにあるのです。

不可知の前世による繋縛

ところで、この「宿業」ですが、残酷な考えではないかと思いませんか。
今、このようにあるのは、前世の報いだ、業報だと言われても、それは確かめようがありません。しかし、このようにあるということは事実としてあるのですから、その原因が前世にあるとしても、その原因は、もはやどうにも動かしようもない。取り除くことはできないのです。そもそも知覚することもできないのですから。であるなら、ただ前世を、また、その業報を受け入れるしかないのでしょうか。
仮に、業の報いを受けているとして、その業が善か悪かはどのように決まるのでしょうか。あるいは、誰が決めるのでしょうか。
結局、業の報いについて、それが善か悪かを判断できるのは、神か仏かということになります。そうすると、業の善悪は、人間には判断できない。今このようにある、それが善か悪か、幸か不幸か、良いのか悪いのか、このような問題について、「宿業」は個人の判断を無効にする、断ち切るという機能があります。特に、「宿命」と言い換えられたとき、われわれは、現にある状態を、あるがまま、受け入れざるを得なくなる。このような残酷さがこの言葉にはあります。これを「宿業」の決定機能と呼ぶことにします。
この決定機能を法や制度と連結させると、個人の行動や思考は極めて制限されることになります。土地に繋縛され移動することもできない。職業の選択の自由もありません。法や制度の権威の下、現にある、あるがままの状態を生き続けるしかありません。結果、宿業は、法や制度、権威や権力を温存するために機能していくのです。そこでは、私は前世での罪障を償うために生きることとなる。

宿業を微分する

前世の報いとは、権力側にとって非常に都合の良い、使い勝手のよいものです。では、唯円さんは、そのような意味で、この言葉を使っているのかというと、そうではありません。それは、親鸞聖人がおっしゃったという次の言葉を読めばわかります。

卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし

歎異抄 第十三条

うさぎや羊の毛の先についた塵ほどの小さな罪であっても、宿業でないものはないと知るべきである。ここで言われる「罪」とは、宿業の働きそのものを指し示しています。
私の心の中では、さまざまな思いや考えが脈略もなく、ひらめいては消えて、ひらめいては消えを繰り返されています。この点滅が、宿業の働きです。
脳とは神経細胞の塊ですよね。脳内では、眼、耳、鼻、口、皮膚などの感覚を通して伝わる知覚が、電気信号として、神経をたどり処理されています。脳内そのものの中でも記憶として蓄えられた信号が錯綜しあって、ひらめきや追憶など、さまざまな思いや考えを生産しています。この脳内を駆け巡っている信号が宿業の正体なのではないか。
また、脳は進化の過程を経て、現在の形に発達してきたのですが、その進化の過程で、時々の状況に適応するために必要な、さまざまな機能を獲得してきました。逆に、状況の変化によりあまり使われなくなった機能は退化、あるいは喪失してきました。この進化の過程で脳の働きそのものに、かつての、時々の記憶が残滓として埋め込まれている。その記憶は、「ホモサピエンス全史」に描かれている歴史とも考えられるでしょう。ネアンデルタール人他、様々な霊長類ヒト科を滅ぼし、マンモスをはじめ、様々な動植物を息絶えさせてきたホモサピエンスです。有史以降、生存本能が唯一生きるための全てであった時間、それは悠久とも言える長い時間です。その間に育まれた記憶は、本能として、われわれの感覚、認識、思考、行動をコントロールしている。

唯円さんの心理学

歎異抄 第十三条へ話を戻すと、「宿業」は、こころの問題として提議されています。

よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人の仰せには、卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべしと候ひき。

歎異抄 第十三条

良いこころが起こるのは宿善が働くからだ。悪事が思い浮かぶのも悪業が作用するからだ。
ただ、ここで、宿善、悪業と言われているのも、良いこころ、悪事という心に浮かんだ内容からそのように呼ばれているにすぎません。つまり、宿善、悪業と呼ばれるものも、同じ宿業の作用でしょう。
良いこころ、悪事も、実はそのように呼ばれるのは、善悪というわれわれの価値判断に過ぎません。これらは意識レベルの働きで、われわれが認知できる、思考可能な物事なのですが、それに対しての宿業とは、われわれの認知や思考のパターン、構造と考えられるのではないでしょうか。そして、それは親鸞聖人のおっしゃる「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかり」程度まで細分化していくと、脳内で絶え間なく飛び交う神経伝達レベルの働きと想定することも可能です。その働き自体には、善も悪も当然ありません。それは、確率論の世界で、無数に飛び交う神経物質の運動があるだけです。あるまとまり、傾向や分布は認められ、それを意識レベルで捉えたとき、バイアスやパターンとして認知し、善か悪かと弁別しているのです。宿善、悪業もこの弁別の結果であり、元は同じ、宿業ひとつの働きには、善も悪もなく、あるいは、全て善とも、全て悪とも言えるし、全て善でも悪でもないとも言える。

それでは、上記の唯円さんの心理学を、第十三条の文中に探索していこうと思いますが、この続きは別稿で、あらためて伺っていきたいと思います。













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