歎異抄を読む 第九条に仕掛けられた唯円さんの吸引装置
「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、」
念仏申しておりましても、踊躍歓喜というほどの気持ちになれないこと、また早く浄土へ行かせていただきたいという思いもないということ、これはどういうふうに考えるべきことなのでしょうか、と、相談させていただいたことがあったが。
歎異抄の中で、親鸞聖人と唯円さんの会話が書かれているのは、この第九条と第十三条です。第十三条は、これまた、親鸞聖人のかなりショッキングなお言葉が出てくるんですが、そちらはおいおいとして。
今日は第九条ですが、歎異抄の第一条から第十条はしくん編と言われます。その中で、第九条だけ、唯円さんの質問から始まる。他のくだりは、冒頭から親鸞聖人のお言葉ではじまりますが、この第九条は、他と違って唯円さんの質問から始まります。この質問の後、親鸞聖人の言葉が続いていくんですが、この「踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころの候はぬ」は、念仏者にとっては、あるいは念仏において、とてもクリティカルな状況です。というのは、親鸞聖人がおっしゃっていることとは違うものなので。
つまり、この質問は、教えていただいたとおり、やってはみたけど、教えのとおりにはならない、それはどうしてなんでしょうかってことですね。
なかなか言えないですよね。
私も、今はおっさんですが、若いとき、上司に逆らうのは相当怖かったですし、
質問していいのか悪いのか迷うところではなかったかとかんじるんですが、
ただ、こういう質問ができるというのは、非常にしっかりとした信頼関係があったからでしょうね。
相手がちゃんと受け止めてくれる、
応えてくれると思ってるからこそ、
安心して質問できる。
この、第九条の冒頭は、唯円さんが悩んで悩んで、もうどうしょうもなく悩んで、自分では解決できない、というところまで追いつめられて、という、つまり、告白、懺悔と解釈されることが多いんじゃないかとおもいます。ただ、必ずしも告白とか、懺悔とか、
というふうに捉える必要はないんじゃないか。
歎異抄って、明治以降、広く読まれて、たくさんの方が、歎異抄についてしゃべったり、本を書いたりしているので、歎異抄についての本を並べてみると、時代や状況によって、読まれ方もずいぶん違うということがよくわかります。暁烏敏の歎異抄講話は明治時代で、曽我量深の歎異抄聴記は昭和十七年、最近は、高橋源一郎の一億三千万人のための歎異抄って、書いてあること、みんな違いますからね。読むひと読むひとによって、歎異抄から感じられることは違うはずです。
歎異抄って、こういうことが書いてあるんだと言わせない、そういうものだと思います。
それは時代とか、社会環境とか、そういうものによっても違うし、歴史上、いろんな資料とか、当時の鎌倉時代に親鸞聖人やその教えがどう位置付けられていたかとか、研究として読むってこともありますが、それだけで歎異抄は語ることはできない。
つまり、読むひとが、どんな経験をもとうが、どんな意図で歎異抄を読もうが、どんな背景や状況であろうが、かまわない。そのひと、それぞれに、応えてくれる、そういう本だとおもいます。
歎異抄は、それだけのしなやかさ、そして、したたかさをもつ、どりょうの大きい本です。
だから、この第八条も、唯円さんの懺悔とか、告白だとか、そういう捉え方をする必要はなくて、素直に自分が感じたまま、受け取ればいいんだと思います。
それで、私自身、私が感じたまま、どういう受け取り方をしているのかというと、
ここに書かれているのは唯円さんが親鸞聖人聖人に質問する場面なんですけど、
この場面を耳の底から引きだしながら書いている唯円さんがいる。なぜ、この第八条で描かれている親鸞聖人との会話をここに書き留めたのか。
思いつくまま、唯円さんは親鸞聖人との会話を書いているわけではないと思うんです。
やはり、戦略的に、ここに、親鸞聖人から教えを受けている自分をもってきたはずです。
それは、「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらん」という問いそのものが、唯円さん自身におさまるものではなく、他の他力の宗旨を信じる人たちにも共通した問いであり、また、念仏の教えに入ろうとするものが、必ずぶち当たる問いだからです。
要は、念仏称えても何も変わらない、変わっていない。これは、どう考えればいいんですかってことですね。
歎異抄を読み、親鸞聖人の考えに共鳴し、実際に南無阿弥陀仏と称えてみて、称えても称えても、信心をいただいたとは感じられない、
なんもかわらない自分がいる。
躍り上がるような喜びなんて、まったく、湧き上がってこない。浄土へいって仏になりたいとも思わない。そういう自分がいる。
ほんとうに私は阿弥陀さんを信じているのか、信心が足りないってこういうことなのか。
ほんとうに信心をいただいていないから、何も変わらないのか。ではどうすれば、何をすればいいのか。
でも、そう考えてしまうと、ドツボにはまる。だって、どうすれば、自分が何かすれば、ってことは自力でしょ。
自力で念仏を称えるってことでしょ。
念仏って他力ですよね。
弥陀の誓願にたすけられて、念仏称えるんだから。
だから、これまで、歎異抄を最初から読んできて、他力や本願、信心、念仏の教えに触れてきましたが、ただ念仏申して弥陀に助けられまいらすべしという、その教えを追ってきたけれど、こと第九条にいたって、唯円さんが親鸞聖人に向けた問いというのは、実は、私に向けられている問いなんですね。
「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころの候はぬ」って、私のことなんですね。
歎異抄って、意表をつくところから始まるじゃないですか。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とか、親鸞は父母の孝養のためにいっぺんも念仏申さず、とか。
それは皆親鸞聖人の言葉でしたが、第九条は唯円さんが唯円さん自身の言葉で、こちらの意表をついてくる、虚をついてくる。
あなたもそうでしょ? ほんとに阿弥陀さん、信じられますか? そういう問いが仕掛けられている。
で、この仕掛けからは、私は逃れられない。
ちがうっていえないですからね。
この問いによって、唯円さんに巻き込まれてしまう。
「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、」
だから、呼びかけてくれてるんですね、唯円さんは。いっしょに親鸞聖人の教えを聞こうと、誘いいれてくれている。そのための仕掛けなんですね。
では、この唯円さんの問いに、親鸞聖人はどのように応えたのか。
それは、また、次回で、ということで。
お聴きいただき、ありがとうございました。