黄色い家
本を書く事が誰かに何かを与えることだとしたら、この本は間違いなく私に何かしら大きな重圧を与えたように思う。
それはずっしりと重く、読み終わってしばらく経つというのに、いまだ身体の奥深くに居座り続けている。
本書がそういった目的で書かれていないとしても、この本を読み終わって何も受け取らないなんて人はおそらくいないだろう。
わかりやすく言えば「貧困と犯罪」の物語だが、そんな薄っぺらいカテゴリーに分類するにはあまりにもリアル過ぎる。
主人公・花が生きた世界は確実に存在し、花のような人間が今もどこかに生きている。
幼少期、母親の帰ってこない家で食べるものもままならなかった時、母親の知人と思われる黄美子がやってきて突然始まる共同生活。
靴が揃えられていたり、衣類をきちんとたたんだり、そういうことが新鮮に感じられる生活。
冷蔵庫にいっぱいに入れられた食料を見るそのシーンに胸を打たれる。
「生きる」とは「金」がかかることだ。
「金」が無くては生きられない。
花にとって金を稼ぐという事はただ生きる事で、それが犯罪であったとしてもだからなんなんだ、じゃあどうしたらいいのだ、という話だ。
花がクレジットカードとキャッシュカードの違いを初めて知るくだりとか、黄美子さんが子どもの頃右手と左手の区別が分からず、親から手に傷を付けられた話を聞くくだりとか、リアル過ぎてつらい。
苦しい。しんどい。
しんどいのよ。
終始しんどかった。
今日を生きて、明日もその続きを生きる事が平気にできている人達。どうしたら、どうやってこれまで生きてきたのか、どのルートを選んだらその「現在」が手に入ったのか。
取るに足らない、なんてことの無い日常の、ハードルの高さ。
ろくな死に方しなかった登場人物たちも、きっとそうやって思いながら死んで行った。
でもじゃあさ、ろくな生き方ってなんだよ、って思う。
まっとうに生きたかどうかなんて、この世を去るその瞬間まで分からないし、よその誰かが判断出来ることじゃない。
幸せって何だろうか。
ひとはなんのために生きるんだろうか。
答えはいつも見つからず、問いかけだけがこころに降り積もり、今日も積もっていく。