私の苦手なあの人も責められないね

私には苦手な人がいる。

嫌いな人はほとんどいないんだけど、苦手な人はまあまあいる。好きだけど苦手な人もいるし、嫌い寄りの苦手な人もいる。

会うたびに嫌味を言ってくるあの人とか。
口を開けば誰かの悪口を言ってるあの人とか。
自分の価値観を信じこんで他を虐げる人とか。

そういう人に会うと、私は「ああ、この人苦手かもしれない」と内心思いながら、それでもニコニコして平常心を保つ。相手を否定しない、相手を立てるモードをいつも以上に張り巡らす。気に触ることを言わないようにとにかく必死だ。(そういうときにこそ、ミスって余計なこと言ったりもするけど)

そんな気も知らず、苦手なあの人は容赦なくチクチクワードやザワザワワードを連発する。

そのたびに傷ついたり、いやだなと思ったり。

なんでこの人はこんな言葉を並べるんだろう。傷つけたいと思って言ってるのか、これが相手を不快にさせることを気づいていないのか。

考えなきゃいいのに、どうしてもその出来事が頭をよぎってもやもやする。負の感情でいっぱいになる。


でも私は、私の苦手なあの人も責めることはできないな、と思う。


私とあの人は、生まれも育ちも違う。幼少期に親にダメだよと教えられたマナーとか、中学時代に友人に言われて悲しかった言葉とか。全部違う道を歩いてきたわけだ。

私はその道の中で、その言葉で傷つくことを獲得したけど、あの人はその言葉をいい意味でしか触れなかったのかもしれない。

どんな言葉で自分は傷ついて不快になるのか。
どんな言葉が相手を傷つけて不快にするのか。

それって自分で学べることだけども、学べないことでもあると思う。

私たちは親を選べないし、育つ環境も選べない。でもその中でしか価値観や道徳を学べない。

自分ではどうにもできない道の中でいつのまにか自分の価値観は醸成されるし、自分が使える言葉はいつだって自分が歩いてきた道の中で触れたことがあるものでしか紡げない。つまりは、どうしようもないわけだ。いつの間にか今の自分になってたんだから。

確かにその過程では、自分で選択できたこともあるだろうけどさ。でも選べないうちに決まってしまう土台は非常に大きな割合を占めると思うんだな。


私の苦手なあの人は、その言葉が相手を傷つけることを知らないかもしれない。

傷つけるとわかっていながらも、そうして人を傷つけることで自分の存在価値を確かめることこそが正義なのだと、どこかで学んだのかもしれない。

もしかしたら、そんな言葉を言ってしまった自分を家に帰ってから後悔しているかもしれない。

どっちにしたって、私はあの人を責めることはできないんだなと思う。

きっと、そうなりたくてそうなったんじゃない。たまたま巡り合わせたその環境が、そうさせてしまったんだ。



そうわかっていながらも、負の感情に飲み込まれるときはそれ以外考えられなくなるから怖い。どんなに仕方ないことがたくさんあろうと、傷つくもんは傷つくんだからさ。

こうやって物事を俯瞰して見れるときは、自分が落ち着いていてある程度余裕があるときだ。現に、負の台風が自分のもとから消え去って、それを遠くで眺めてる今だからこんなふうに考えられてる。

いつだって余裕が欲しいけれど、それも自分じゃコントロールできない。でも少しずつコントロールできるようになることが、大人になるってことなのかも。



私がこんなことを考えてるだけじゃ世界は1ミリも変わらないし、別に自分から声に出して言おうともしないし、そもそも言えないんだけどね。

でもその考えが頭のどこかにあるかないかで、自分の懐の広さが少しは変わる気がする。

傷つけなくていい人を守れたり、大事な人を大切にできたり。するんじゃないかな。どうだろうか。

少しでもそう思うなら、自分の言葉はいかなる時も自分に向けられてると思って、肝に銘じておかなきゃね。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?