移植❌完治❌初症例
「不治」とか「生存率」とか、正直他人のデータだと思って頑張ってきた。
だから、「完治」なんてものを目指せたこともあったんだと思う。
現代医学での唯一の「完治の可能性」は、国内初症例としてチャレンジした。
晴れて「完治して、これから再スタートのために、リハビリを頑張る時期だよ」こんな主治医からの言葉とは裏腹に、2ヶ月未満で再発。
一般的には、完治とは呼ばずに寛解と呼ぶ。即ち、治ったくらいの状態だけど、再び病が再燃することもあるということでの寛解。
しかし、それまでも確率には常に勝ってきた。生存症例の報告が出る以前でも、奇跡的な回復を見せた。
寛解という名の、治ったみたいな生活に戻ったことも二度ある。スポーツに制限はかけられても、感染予防に気を配るように注意されても、病気で苦しむわけではない。
「寛解」に達し、リハビリで機能回復したのちは、今までのように学校へ行き、仕事ができる状態に戻れた。
それが困難になったのは、骨髄移植前の数ヶ月。抗がん剤治療で心不全が始まり、それまでと同様には治療ができなくなった。
骨髄移植(造血幹細胞移植)の適応は有る。しかし、激しい病態で、移植が急がれた。しかし、直ぐにとはいかなかった。
最速で進めたプロセスの中、幹細胞採取のタイミングでその後の命運が分かれたのかもしれない。
とはいえ、移植に漕ぎ着けた。
移植中も、一般的によくある合併症にはなったものの、全ては順調。むしろ、回復スピードは病棟始まって以来の速さだった。
晴れて退院。まぁ、「最速の回復」とは言っても、食事は直ぐに嘔吐してしまうため、かなり色々気をつけねばならない状況。飲水も気をつけてゆっくりちびちび飲んで、やっと充分量といったところ。
料理も自分でできるほどにはまだ回復していない。骨髄破壊的前処置というものは、幹細胞を入れなければ、致死量の抗がん剤(±放射線)を投与する。身体が悲鳴を上げないわけがない。
感染予防で、友人に手伝ってもらうのも、家族のそれとは少し違う。
何よりも、自分が気がついていた以上に、長年の闘病で心身が疲労していた。そして、久しぶりの和食(粥だが)。これが、たまらなく美味い。
そして、自分の中では「完治」を信じて疑わなかった。流石に、世界初症例ではなく、文献では数年観察して長期寛解例が発表されていた。
元々、自信過剰なのはあるだろう。
この時も、もちろん自分に最善のアウトカムが訪れることを信じて疑わなかった。
一ヶ月か二ヶ月、実家で体力回復をしてから戻ってこよう、そう考えてしまった。
実家近くには、日本でも指折りに入る病院がある。移植後の経過観察と感染した時の対応を安心して任せられる。
もう一つ、どうしても実家に帰りたい理由があった。
そして、少し長めの夏休みを取ることとした。ちょうどこの時、職場は秋から変わる予定になっていた。自分が最も興味のある分野の研究を、世界トップクラスの施設でさせていただけることになっていた。
実家で骨休めを始めて...1週間以上は経っていたある日、たまたま別の科受診時に再発発覚...
即日色々検査→緊急入院......
ここから、本当の闘いが始まった。
とはいえ、この時は色々ありつつも、前向きに入院生活遅れてたんだけど。長期治療で、どうにか寛解に漕ぎ着けて、まぁ......
で、ある程度リハビリして、行動範囲広まり、さぁ、今度こそ念願の「再スタート💕」......
のはずが...!!!
まぁ、現状から、色々芳しくない状況に陥ったことは想像できるかと思います。このnoteのアカウントを作ったのが、過去最高に追い込まれている時だったので......
実は、昨年の闘病が今までで一番追い詰められておりました。移植後再発というのもあるけれども、生まれて初めて主治医団が最善を尽くす意思がないように感じたから。
手抜きをされることほど、悔しいことってないとこの時知った。正直、後回しにされ、最善を尽くさない意向の中での入院・闘病はキツイ。今まで経験したことのないことだけれども、正直この無念さや悔しさ、居た堪れない、やり場のない想いは経験したくなかった。
このnoteの第一の目的は、形に残すこと。
そうすることで、私の経験から学び、自衛できる患者と、患者の視点から医学的事象を見つめ直せる医師が出てきて欲しいから。
もう一つは、真っ只中に感じることや考えることを生の形で書き留めること。のちに加筆修正するにしても、「今」の想いを「今」綴りたかった。
きっと、誰かの役に立って欲しかった。