白い巨塔(2004年版)
患者としては禁句か?
けど、若気の至りはあれど、財前吾郎、一所懸命な医者じゃん。
頑張っていて、凄いと思う部分もある。
手術の腕は極めてるしさ……
(実は、15話くらいから見た…ん…だ…から… ストーリーを全ては知らない……)
医療の不誠実さを描いている作品として有名だが、立ち止まって細部も見るともっとずっと複雑だと訴えている作品にも思える。
年末年始や学会、教授戦や医局内の行事の餌食にならぬよう、患者もある程度の自衛は必要だろう。
とはいえ、人間が人間を診ている以上、各々が最善を尽くす以上のことはできまい。
(どこかの方言で、「〜まい」とはやりなさいという意味らしい。「食べまい」は「食べてね」みたいな感じらしい。なので、「最善を尽くせ」という戒めも込めて、「まい」という文末を敢えて用いている。)
色々上手く行っている時って、自分のことを過信する時期って誰でもあるんじゃないかと思う。そして、疲労や体調不良、焦りや急ぎで普段の最高のパフォーマンス未満になってしまうこともあるだろう。医療以外の仕事をしている方にも、きっと自身満々でちょっと頑張りすぎた経験はあるのでは?
(命の現場では、一度のミスも許されない。許されないのだけれども、その瞬間でのベストパフォーマンスが、ベストコンディションでのベストパフォーマンスに劣ってしまうことは実際にはあるのではないだろうか? この時の患者として、アウトカムが悲惨な場合には嘆くし、狼狽する。そして、状況によっては心の中では主治医を責めることもあれば、恨むことすらあるかもしれない。状況によっては…… そう、状況によってはね。けれども、だからといって制裁を下すかは…… まぁ、ご遺族だからこその裁判だろう。ここで、私自身が患者として感じたこととして、やはり誠意ある対応や精一杯の対応というのはアウトカムが意にそぐわない時でも感謝する。逆に、何故こうまでも対応が蔑ろなのだろう、と自問自答を続けた状態でアウトカムが悲惨だと、それは流石に憤りを覚える。だから、白い巨塔はコミュニケーションがいかに大切か、信頼関係がいかに大切か、人の心も社会もいかに複雑かの描写でもある気もする。そして、肺病変が本当に炎症性変化だった場合、検査に慎重になりすぎて、根治可能な時期を逃して手術で治った癌転移して治らなくなった場合はどうなのかも議論はしても良さそうだ。(この場合、検査をしない方が良いと言っているのではなく、あくまで議論される点の一つに上げるべきという意図。) 連載が始まった1963年当時の医療で、食道がんが放射線や抗がん剤で食い止められたかや、ほとんど有効な対症療法・緩和治療が存在しなかった時代の化学放射線療法が術後のがん進行よりも高いQOLでの延命効果が見込めたのかは議論の余地があるだろう。仮に、効果があっても、一定数では治療抵抗性を示す場合もある。その際、食道がんが大動脈に浸潤し、大出血による急死を招かない保証もないかも議論しても良いのかもしれない。感染症の可能性も議論されて良いかもしれない。現代の医療とは違う世界だからね…… 放射線治療も化学療法も全然違ったそうだからね。そして、免疫療法は存在すらしていなかった。現代とは、文化も医療も別世界だったことだろう。しかしいずれにせよ、隠蔽や故意の過失は遺憾…… 事実を曲げることは許されない。ミスがあっても、それに気がついた瞬間に必死に挽回するために全力で最善を求めれば良いだろうに…… ある意味、手術ミスで下手したら私が患者として命を落としていた可能性もあった事態も乗り切ったこともあるから断言できる。患者は誠意や不慮の事態からの挽回にも好意的であれる。ただ、隠蔽に隠蔽を重ねて、その度に意図的に虚偽の説明とミスを重ね続けることは極めて厳しく言及したくもなるだろうね。だから、財前吾郎が裁判で負けた理由は、唯一の根治術である手術を急いだことが1〜2割(この辺のストーリーは裁判中の断片しか見ていないが)、それまでとその後のコミュニケーションの欠落が5〜6割、術後肺炎ではないと疑う段階で転移の精査をせず、無効の抗菌薬を無効だと分かって投与し続けたことが3割…… (この時、財前は国外の学会にいて、メールに返信せず、電話を折り返さなかった。しかし、これは当時の医局の体制自体にメスを入れた描写なのだろう)コミュニケーションとは言うけれども、当時は医師のパターナリズムが推奨されていた時代だろう。財前吾郎のコミュニケーションスタイルは当時の典型例なのかもしれない。この辺は分からないなりの憶測にすぎない。なので、責めるとするならば、財前吾郎一人というよりも、当時の業界なのだろうか? 事実の観察と考察ではなく、医療サイドのシナリオが優先されてしまう場面がないわけじゃないというのは、間違いに過度な羞恥心を抱く文化の影響もあるのだろうとは思う。あとは、医療訴訟を恐れるが故、医療よりも訴訟予防が前に出る場面もあるかもしれない。だから、責められるのは医療というよりも、教育だという意見もあっても良いのかもしれない。この辺は、私がある程度半分部外者で他の国の医療現場も知ってるから抱く考えかもしれない。医療現場で非最善の考察があったり、スタッフの考察や対応に凸凹があるのは万国共通だと思う。そして、ミスを積極的に露呈するかはまた別の議論だろう。しかし、ミスの隠蔽こそ正義っぽくなっちゃっているとか、分からないことがあった時に聞かずに分かったふりをするのがむしろ評価減点にならないというのは、文化もあるんじゃないかな?ぜひとも様々な方々と色々議論したい。)
財前吾郎が医療の発展のために、積極的に解剖検体になり、研究に我が身をドネーションしたのは模範的であり、財前吾郎の自分の信じることへの忠誠とストイックさをよく描いていると思う。彼にもよろしくない部分もあり、野心家すぎてギラギラしすぎていても、自分の信念に邁進する良い医者であろうとはしていたんじゃないかな? 揉まれた環境が、野心と隠蔽気質を高めてしまったことは気の毒だ。もちろん、財前吾郎にとっても、佐々木さん一家にとっても。そして、若気の至りとしては悲しい結末を生んだ自信過剰さが悲劇の根底にあるものの、人間らしさでもある気もする。
医者は誰しも、財前吾郎と里見の両方を心に飼っているのかもしれない。
まぁ、いずれも欠落している人もいるようだけど。
だからこそ、白い巨塔は名作なんじゃないかな?
患者も医者も人間だということは、誰も忘れてはいけない。
それこそがこの作品のメインテーマだったりしてね。
p.s. 東先生のところのお嬢さん、無意識下に里見先生に若干なりとも恋心を抱いていたのではないかな? 原作が書かれた頃の日本文化を知らなければ、この辺はよく分からない。
p.p.s. 人であるか、医師であるかが問われる状況には陥らず、医師である人であれる環境というのは大切だね。まぁ、当直などで労働時間や責任が重い職業において、医師という職は人格の一部にもなっていくのだろう。しかし、精神面で二者択一というのは医師にとっても、患者にとっても辛いのではないだろうか? まぁ、責任もリスクも重いからね。なんでも理想論とは一致せずとも。
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