【健忘録になっちゃった】〜偉い❌スキル❌大切なこと〜
「自分の病気を治すために医者になったと言ってしまったが、実際はどうだったかな? 生き方も生きる目的も人それぞれだと、最近は思うようになった。苦難をものともせずに、明るく生き、前向きさや「今を楽しめる心」を周囲に伝え、様々な人々の生きる姿勢や生きる希望に影響を与えることも、立派で素敵な社会貢献ではないだろうか。」(にゅーいんくんのお母さんが書かれた記事を読むんで思った。)
ちょっとだけ、私の背景を書こうと思う。
元々、私が医者になろうと思った理由は、口には出せない……
小学生の時に、「跡取り息子」や「家を継ぐ」という漠然としたコンセプトに憧れを抱いたことがあった。
私も友人達に混ざって、私も家業を「継ぎたい」と思ったのは鮮明に覚えている😅。(しかし、実家の医院を継ぎたいとは思わず、世界の最先端医療をこの手で〜、となんとも漠然とだいそれた夢を抱いた。)
時は流れ、私がまさかの患者になった。
この時、自分だけは治ると信じていた。(初めて「治らない病気」と言われて、最大・最善のアウトカムを願って抗がん剤治療を受けた時に、「治らない」を受け入れかけていた私に「いんや、治る」という意気込みを吹き込んだエピソードはこちら)
抗がん剤治療中、私はふと「自分には、私と同じ思春期に抗がん剤治療を受ける患者さんの気持ちが分かる医者になれるのではないだろうか?」という想いが湧いた。これは、私が小学生の頃に白血病でなくなったあの子を思い出しながら思った記憶だ。
この時から、私は「小児血液内科医」を目指すこととなった😅。(なんとも単純)
その後、もっと珍しい疾患になり、人工呼吸器を装着して生き、日本初症例として生存と復学という快挙を成し遂げた。
この時、私は「治す」という医学の恩恵以外にも、
「寄り添う」ことの力と魔力を知ることとなった。
(その時を簡単に短く書いたエピソードはこちら)
ただ、天国のように明るく開けた一般的な日常は、そう長くは続かなかった。
生存と半年程度休んだ学業のキャッチアップ、世界統一試験っぽい(IB)試験や課題等を無事好成績で終え、無事卒業し、医学部医学科に現役合格した私は卒業後間もなく再発した。(ある意味、受かった別の国の医学部に行くために、移住後に、病歴・治療歴が無い病院で再発しなくてよかった?のかもしれない?)
この時は、初発時に奇跡を起こしてくれた治療が全然効かなくなってしまった。
初発時、退院前に再発時に施せる治療の確立目的も合わせた(X+Y+Z)は当時の主治医がPEのリバウンド防止に注力していた施設に問い合わせてPSLの追加方法の助言を受けて加えたものだった。その直後の輸血製剤投与は、アルブミン置換した初期治療で抜けたZを補う意味と、Zの治療効果の両方を加味して思案されたものだった。
初発時に難航した治療から編み出した再発時の対応策は、再発時に解体されてしまった。「どれが効いているのかが分からないといけない」(一理あるとはいえ…… 初発時に色々標準治療で上手くいかなかった場合、アレンジを継続するのは、新しくできた公式を、いや、組み立て終わったミニ四駆をわざわざ「今が正念場」という大会のスタートラインでいきなり解体し、今までに検証してきた経験値を今一度白紙に戻して、パーツを一個一個検証するような勢いではないだろうか?いずれは、古い公式や一般論へと分解、部分削除、再検証することが必要になるかもしれない。しかし、再発して、他の治療が何もなく、命がけ&人生の貴重な時間をかけた最も大切な瞬間(時期)に、この解体+部品ずつの再検証はせずともよさそうに思うのは、私だけ?だろうか……
この頃、長年君臨していた天才的かつ人徳的教授が退官され、業界を築き上げてもり立てた天才には劣る専門分野のみに詳しい人物が後釜に置かれていた。(ガーン)
それまでアマゾン河の麓で伸び伸びと繁栄を遂げていた医局だったが、天才で人徳的教授が病院を去るのを皮切りに……10人もの医局員が退職してしまった。彼らは自分の夢を追って巣立って行ったのだろうから、彼らにとってはめでたい時期だったかもしれない。
しかし、オアシスがミラージュに化けてしまうリスクを負った、変革真っ最中の病院に今までになく切羽詰まった病状で舞い戻った私にとっては、災難なタイミングだったのだろうか?
(色々ハショル、何ヶ月分もハショッてる)
とはいえ、この天才的で人徳的教授は名誉教授となり、私を気にかけてくれたのだ😳(まぁ、敗血症+DICなら、お別れの挨拶だったか? それでも、普通に接し、多分色々教えてくれて(意識と記憶が曖昧)、「疲れると悪いからまた今度会いに来るよ」と声をかけてくれた。(本気で、またお見舞いに来てくれるのを楽しみに思った私)、わざわざ会いに来てくれたのがそもそも凄い😳)
当時の主治医も一生懸命治療をしてくれた。
色々、あったなぁ。
詳細はハショる(記憶は結構飛び飛び)
いずれにせよ、再び命は救われた。
この間、本当に色々あった。
親が医者でよかったと思うこともあった。
「普通だったら、気がつけなかった」とか「普通だったら、対処が遅れていたかも」、極論「普通だったら、生きてなかったかもね」と、まぁ、実際には分からない。とにかく、母に医学知識があり、色々対処がより良くなる要因として働いたであろうことは、話題に上った。(これは、病院の批判ではない。些細なこととして無視せず、スタッフに申告して対応してもらったことなども含んでいる。)
たしかに、非常に一所懸命治療をしてくれた。ものすっごく良くしてもらった。
でも、どの病気も辛い。
肉体的窮地というのは、そういうものなのだろう。
いずれにせよ、自身の異変を察知するためにも、最速で最善の治療をするためにも、自分が医学を知っていることのベネフィットを感じ、同時に「医療従事者」ということが患者としての財産になる印象も受けた。
ある意味、「自分だけは特別」だと思っているから、当時は多くの死亡例が文献で上がってくる中で再び生還できた「自分は特別ラッキー」だったと思うに至った。(それには、初発時を知る医師が医局にいたこと、名誉教授として神がかった恩人の先生が気にかけてくれたこと、主治医が医師の発言タブーを破ってまで「〇〇ちゃんは私が死なせない」とまで約束し、必要な時に頑なに拒む私に人工呼吸器装着を同意させたこと、主治医(と医局?)が文献を発掘して、凄く一生懸命に治療をしてくれたこと…… 奇跡的に合併症が少なく、合併症が起きてもそこから回復できたこと、全てが幸運だと思うと同時に、それらを引き寄せられた自身の境遇も引き運の強さ(引力)として感じたのだろう。)
当然、「医者として患者さんに寄り添いたい」、「患者さんの治療を上手くする良医になりたい」、「病気を治してあげたい」という想いは強かった。(想いが強すぎて、医学部時代には知識と経験の修羅とブラックホールに化けるくらいに貪欲に「患者さんのために」⇒「自分が勉強しないなんて、ミスに繋がるから殺人と同じじゃん」と思うくらいに、とにかく知識と経験に貪欲だった。)
一方で、まぁ、医学部のカリキュラムに加えて、臨床や研究もしていたのでね…… 大変っちゃ大変だよね。毎晩例外なく22時には入眠していたから、友人達とのパーティーも欠席が多かった。食事もバランスよく十分量食べていた。(学食って、本当に最高! 学食以外でどうにかしないといけない時は大変で、大変で💦 7時通学、20時帰宅で22時入眠なものでね……時間が無いのよ。)
加えて、毎月欠かさずに点滴治療をしていた。一週間連日学校に行くのに、日曜日は自宅で身体を休めないとキツかったから、日曜日は必ず友人達の集まりに参加せずに休んだ。(可能ならば土曜日にしてもらったが、病気や治療に触れまいとして生活していたため、「謎に消える瞬間がある」だけの理由で予定変更・強要はお願いしなかった。)
学生生活は楽しかったよ。最高に楽しかった。勉強も「患者さんのために〜」とか言いつつ、正直楽しくてしょうがなかった。何故という疑問に答えてくれる知識が尊く、好奇心の塊なのに数年の闘病で飢えに飢えた私には、砂漠に水を撒くように一瞬で吸い上げる宝のようだった。
それでも、「頑張らないと!」と自分を踏ん張らせる瞬間だってある。
そういう時、「私が生きていくためには、医師になるのは必須条件だ」と言い聞かせた。遊びたい時に、治療や休息を優先しなければいけない時も、「私自身の命のために」と自分に言い聞かせた。
そして、細部には「自分が治る治療を見つける」とか「自分が治る治療を編み出す」とか「自分が治る治療を可能にする」という原動力が、私を探究と勉強、研修・研究に掻き立てた。(もちろん、「患者さんのために〜」とは強くて意識しているし、そういう強い患者さんファーストの理念が原動力になっていたことも多い。)
だから、ある意味、私は治らないと言われて、自分で治す方法を見つけるために医者になったとも言える。当然、当時は自分のような患者さんを助けたり、そういう子供たちに寄り添うために医者になりたいというのが大きな原動力であり、夢だった。しかし、歯を食いしばって進む時には、「医者=自身の生存権」と自分を奮い立たせることもあった。
逆に言うと、私にとって生存の術は無条件に渡してもらえるものではなく(実はそういうことも多々あることに気がついておらず?)、自身の能力と行動で勝ち取る必要がある勝利の勲章に近いものという考えに至る様々な経験や想いがあったのかもしれない。
ただ、これは決して職業によって命が選別されるという意図では書いていない。生存権が平等かは、そうだなぁ…… 病気になった瞬間から、ある意味では、自身や家族、友人達の努力と周囲(医療従事者含む)の理解と行動によって、生存権(生存の術)を再構築するものだとも思っているかもしれないなぁ。(この辺の価値観は、初発時、闘病中、骨髄移植前後、居住地、文化、自身の感情、財力、友人達の居住地、所属、年齢や経験など、実に様々な要因で常に変化している。)
とはいえ、人って常に苦しいことに埋没して、格闘して、常に勝ち続けるのも消耗するし現実的ではないだろう。
今は、時には現実逃避も今を生きることに必要なスキルだと考えるようになりつつある。
そして、適度な息抜きこそ、長期生存、快適さ、幸せさ、そして長期的な成功には重要不可欠にも感じている。
子供だからこそ、将来があることを見据えて「〇〇すべき」という大人の考えも分かる。
けど、最近「大変な中で頑張って生きている」、「生きているだけで偉い」、「このような状況でも笑っていられるなんて凄い」とか、こういう姿勢もかなりのインパクトがあるように思う。このような状況や姿勢から、周囲が得られることも多いと思う。
学業や研究、就業(収入)以外の貢献にももっと社会が着目して、肯定し、受け入れてくれたらいいのに、と思う。
そういう意味で、にゅーいんくんの明るい姿勢は人類にとっての宝(財産)だと思う。
それを肯定するお母さんも素敵な方に聞こえる😊(手加減されずに遊んでもらっていた子供として、手加減せずに本気で遊んでくれるリスペクトを嬉しく感じる😉本気でゲームをしていた姿も想像すると、凄く微笑ましい😊)
今を大切に生きよう!