【日記】最近の教え子たちと私
これは「私の周りのあるある」の一つなのだけれど、なぜか教え子たちからの連絡は重なりやすい。
年代も住んでいるところも、高校生の頃所属していた部活動も、本当に何もかも違う子たちから、不意に続けて連絡がきて驚くなんてことが、たまにある。
タイミングが読めるときもあるのよね。
例えば、原作が映画の作品を、ある代で文化祭で劇として取り上げたことがあるのだけれど、その原作映画がロードショーで放映されるとなったときは、「先生、テレビ観てる?」「懐かしくなって連絡した!」と、数人から連絡がきた。
共通の「思い出」があるから、ふとそれを思い出したときに「わかる人」と共有したくなるのだろう。
卒業して何年も経つのに、その「わかる人」に私のことを挙げてもらえるのって、本当に光栄なことだなと思う。
関わろうとしなければ、もう関わることのない関係性なのに。本当に本当に、ありがたい。
とはいえ、そんなタイミングなんて一切関係なく「聞いて!」とか「先生ランチ行こうよ」とかいう連絡が重なることが年に一度はあるのだ。
接点のない人たちが、まるで申し合わせたかのように連絡をくれる。
不思議だよねえ。
何かあるのかな、思い出してもらえるきっかけが。
のほほんとそんなことを考えながら、こちらも無理なく気ままに反応をする。
そんなこんなで、ここ最近も少し久しぶりな人と、かなり久しぶりな人と、ちらほらやり取りをした。
他愛のない会話から、真剣な話まで、その内容は本当に多岐に渡る。
私はいつだって、私に答えられる限りの「私の考え」を伝える。もう卒業して何年も経ちますからね。
その辺の人間よりも、ほんの少しだけ「あなた」を理解しているだけの一般人として、問われたことに私なりに考えて意見を述べる。
良いことも、悪いことも、言う。
相手も立派な大人なので、きちんとそれを受け止められる。
こちらが相槌を打つだけでも、しっかり自分の中を言語化できているし、本当に成長したなあと嬉しくなる。
きちんと自分のことを理解して、その進む道を切り拓いている現状を、勝手に誇らしく思ってしまう。
相手が高校生だったときの記憶は、もちろんいくつになっても変わらない。
どれだけ時が流れても、可愛くて騒がしくて、それでいて自分の中に芯は持っていて。
そうそう、君はそういう人間だった。
連絡をよく取っている人であればあるほど、あの制服を着ていたときから、変わらないところもあれば、大きく成長しているところも見える。
本当に、たまらない気持ちになる。
あのとき、教室の隅で泣いていた君が、今やこんなにも人生を謳歌しようとは…!素晴らしい!
それもこれも、本人が自身の努力の果てに掴んだものだということを知っているからこそ、尊敬もできる。
私にできないことを、やれる人は一人残らずみんなすごいし、人として尊敬に値する。
これは、教壇に立っていたときからずっと彼らに言ってきたことでもある。
今でも、その感覚は変わらない。
私の教え子たちは、これまでもこれからも、変わらず私にとって、眩しくて揺るぎない大切な存在であり続ける。
ときどき、思う。
人生における「高校生活の三年間」って、大人になる頃どれくらい覚えているものなんだろう。
私自身、もう「高校」で過ごした時間が長すぎて、自分が高校生だった頃の記憶と、教員になってからの記憶が混在している気がする。ポンコツ!
ただ、間違いなくそれぞれが、それぞれの三年間を過ごしていて、良い思い出も悪い思い出もきっとあって、もちろんいろんな事情も交錯している。
つらかったり苦しかったり、という人もきっといて。
一概には言えないことは重々承知しているのだけれど、それでも私は、せめて私が関わりを持った生徒たちはみんな、一瞬でいいからいつまでも光る思い出が、その胸の奥ででずっと光っていたらいいなと、思う。
ああ、いつまで経っても、忘れたくないことばかりだし、思い返す顔ばかり。
ありがたい限りだ。
定期的にこういうことを考えさせてくるんだもん、いつまで経っても記憶の中の教壇をさまよっちゃって、もう亡霊になっちゃう。本当に恐ろしい子たち!
そんなことを、しみじみ思う一日でした。
どこかしらで、また会える子には会っていきたいなあ!
それがこの夏したいことの一つだ。
ああ、みんながこの夏も、それぞれにとって有意義で実りある時間を、無理なく生き抜けますように。