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【エッセイ】三月を過ごす大人

日用品の買い物を終えて、のんびり駅前を歩いていたら、卒業式帰りの高校生たちとすれ違う。

そんな瞬間に、度々目を細める三月。

平日の昼下がり、まだ夕暮れには早い時間。

胸にはお揃いのお花のコサージュ。
手にはそれぞれに小さな花束をもって、「これからどうする?スタバ行くー?」みたいな話をしている。

もう、「じゃあまた明日ね」のない世界線。
会う約束をしなければ、会う意思をお互いに持たなければ、これまでみたいには「会えなくなる」未来。

それらを、決して口にはしないけれど、その場にいる全員が共通認識として持っている空気感。

そういう景色に、私はめっぽう弱い自覚がある。

ああ、君たちの未来に抱えきれないほどの幸多かれと願ってしまう。祈ってしまう。

何の縁もゆかりもない、全く知らない子たちであっても。

みんなでワイワイとしているときには、まだ大丈夫なのだ。卒業式という非日常的なイベントに舞い上がって、最後の制服ー!なんて騒いでいるうちは、わからない。

みんなと別れてそれぞれ家に帰り、これまで着ていた制服を脱いで、一人でお風呂に入るくらいに、その「ことの大きさ」に気づき始める。

想像するだけで、たまらない気持ちになる。
あの「ああもう高校には戻れない」となる、時間の不可逆を噛み締めるような瞬間。ただひたすらに切なくなる。

教壇を離れてもう何年も経つのに、昨日のことのように思い出す。

空っぽになった静かな教室。
三年生が卒業して、寂しくなった部活動。
最後まで受験を粘る子を、必死に応援する春休み。
会議だらけの中で、何とか新年度の準備を進める放課後。

学校って、本当に特殊な環境だよなあとしみじみしてしまう。

ああ、三月が終わっていく。


歳を重ねるたびに、「ああこれが生きるということか」と思う瞬間がある。

気づかないうちに謎な打ち身ができていたり、数日前にできた切り傷がいまだにジクジクと痛んだり。あな、おそろしや。

変わらないものもたくさんあるけれど、日々いろんなものが変わっていく。

多分気が付かないところでも、いろんなものがじわじわと変わっている。

歳を重ねることそのものには、さほど抵抗はないのだけれど、それでもできていたことができなくなるなんてことを自覚する瞬間は、どうしてもショックを受ける。

まあ、私は昔から二重跳びも逆上がりも、全然できないようなタイプの人間だったわけだが。ハッハー!

「大人になる」って、人生を進むとだんだん形が変わる自分を受け入れることなのかもしれない。

知らんけど。


先ほど、「昔から二重跳びも逆上がりも、全然できないタイプの人間だった」と述べたけれど、実際にできなかったのかは、実は、我が事ながらわからない。

やろうとした記憶はある。
みんなできるし、体育の実技テストもあったはずだから、できた方が良いに決まっているもんね。

でも何でかわからないけど、「必死にやろうとした記憶」はないんだよなあ。

それでいうと、私は「私の人生」において、何かを必死にやろうとした記憶というものがあまりない。

何でやろなーと考えたら、「自分がしたいと思えることしか、必死にならない」という性質があるからだと思い至った。

私は昔から、面倒くさくてややこしいヤツなのである。

言うなれば、二重跳びも逆上がりも、私の人生には「必須事項」ではなかった。

できなくても死なない(世の中、大抵はそうなんですけれども)、というような、一種の居直りがあった気がする。

足が速い人がいる、すごい!
絵が上手い人がいる、素晴らしい!
字が綺麗ない人がいる、かっこいい!

それらは、その人たちが持つ、その人たちの特性であって、そうなのであれば得意な彼らが頑張ればいい。

そこは、私の出る幕ではないのだ!
できないことを頑張るより、できることをエンジョイしたるんよ!の精神。

というわけで、幼き日の偏屈なヤツは、日々せっせと図書室に通い、活字をついばむことに精を出していたわけです。

結果、歩み至ったのが今の人生なので、何が良いか悪いかは、まあわからないものだ。


自分が、高校生だったときに思い描いていた「大人」というものには、一生かかってもなれないような気がする。

あのときには、気がつかなかったこと。
今だから、わかること。

「大人」なんて、まあそんなものなんだよなあと思いながら、友人にもらった日本酒のお土産を、そっと開封する。

そんな三月の、ある夜。

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