『この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力』について


1.はじめに

推し語りまとめ・後編 小説以外で「作家買い」が起きる場合について

今回のnoteは上記のnoteで取り上げていた書籍で、佐々木俊尚氏の本である『この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力』についてです。

2.本noteの形式

こちらの書籍ですが、話題が多岐にわたるため、一部抜粋し、私の私見を加えつつ、内容を紹介したいと思います。

2-1.~まえがきにかえて~

いま議論すべき「二十世紀の古くさい神話」とは何か。それは端的に言えば、テレビや 新聞などのマスコミが二十世紀後半につくり上げてきたステレオタイプ なモノの見方の数々である。 それらの神話は二十世紀には有効だったかもしれないが、二十一世紀の現在ではまったく無意味になっている。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
この国を停滞させる「二十世紀の神話」を終わらせよう
~まえがきにかえて~
より引用

それなのに、いまだにテレビのワイドショーなどではコメンテーターが「テクノロジーは人を必ずしも幸せにしない」「合理的ばかりを追い求めていいのか」とオウム返しのように一九七〇年代のステレオタイプを口にしている。こういう番組に影響されて、AIや自動運転などの新しいテクノロジーが登場する旅に人々は「怖い、怖い」とこれもオウム返しに口にするようになっている。「怖い、怖い」という前に、まず自分の国がテクノロジーで他国に圧倒的に立ち遅れていることを直視すべきではないだろうか。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
この国を停滞させる「二十世紀の神話」を終わらせよう
~まえがきにかえて~
"テクノロジーを怖がるステレオタイプ"
より引用

そもそもの話として、テレビのワイドショーなどに出演されるコメンテーターの価値とは何でしょう?報道している話題に対し、深い知識や知見を有しているのでしょうか?仮に"報道している話題"に詳しい方をコメンテーターに招いたとして、内容が他の話題になった際に対応できるのでしょうか?という疑問が浮かびます(ワイドショーの類は見ていないので、どのようにして番組を進行しているかは知らないのですが、話題のたびに話題に適したコメンテーターに出演してもらうことは可能だと思います。最も、番組側がそこまでするかは分かりませんが)。番組で取り上げる話題に対して、しっかりとした知識を持ち、優れた見識を述べているのでしょうか?そうでないとするなら、どんなに優れた学者、作家、芸能人であったとしても、コメントの価値はよくある町中の人々にインタビューして得られるコメントと大差ないと思います。
ここで私自身の姿勢について書いておくと、ステレオタイプな考え方はあまり好みません。理由ですが、自由な発想、柔軟な思考を阻害するように感じますし、主にSNS、ニュース、書籍などで単純なステレオタイプに当てはまらないような様々な考え方や個人の価値観などに触れてきたためです。
また、様々な記事を見ますが、ステレオタイプな記事をあまりにも見すぎたせいか、タイトルを見ると引き込まれるどころか「またか…」となり、記事の冒頭すら見たいとも思わなくなってしまいました。
テクノロジーに関しては、肯定的な姿勢をとっています。テクノロジー自体に興味はありますし、私のnoteで過去に取り上げた、メタバースや生成AIなどはもちろん、日常で我々が利用しているPCやスマートフォン、通信技術その他もテクノロジーの産物だと考えており、生活に必要不可欠であると考えているからです。新しい技術に関しては、良い面も悪い面もあるのは当たり前の話なので、新しい技術に対して、ネガティブな面を出すこと自体に、ステレオタイプな考え方だと考えます。「新しい技術に関するデメリット」を書かれるのであれば、それと並行し、「新しい技術を取り入れず、古い技術を使い続ける際のデメリット」も掲載すべきではないかと考えるのですが、そのような記事を書かれる方はどのようにお考えなのでしょう?

2-2.第三章 メディアの神話

「レモン市場」という経済用語がある。果物のレモンではなく、アメリカのスラングで、「質の悪い中古車」をレモンと呼ぶのだという。中古車はボディやエンジンルームを磨き上げておけば品質はよく見えてしまうので、客は気づきにくい。こういう質の悪い中古車を売りつける業者が横行すると、中古車市場は全体に質が落ちてしまうことになる。これが「レモン市場」である。レモンは皮がぶ厚く、外見から見分けがつかないことから、そう名づけられたらしい。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
第三章 メディアの神話
「レモン市場」で考えるフェイクニュース問題
"メディアは不確かなものであふれかえっている" より
「レモン市場」という経済用語について

インターネットが普及していなかった一九九〇年代までのマスコミ時代は、新聞やテレビの発信するニュースを多くの人が「たいていは信用できる」と捉えていた。問題は本当に信用できる事実だけを報じていたかどうか、ではない。当時だってインチキな記事や語法はたくさんあったはずだ。しかし、ネットがなかった頃はそういう誤報は人々のあいだであまり共有されていなかったから、大多数の人々は「新聞やテレビの報道は、まあだいたいは正しいだろう」とそこそこ信用していた。
(中略)
ところが二十一世紀になってインターネットが普及し、ブログやSNSの手助けによって専門家が自力で情報を発信できるようになる。それまでみんなが漠然と信じていた新聞・テレビの報道が、かなりあやしく不確かなものであることが明らかにされてしまう。さらにネット自体にも、あやしい陰謀論やデマであふれかえるようになる。新聞・テレビであれネットであれ、流れてくる情報そのものがたいていはあやしいものだということが認識されるようになってきた。要するに、新聞・テレビにネットも含んだメディアの全体が不確かなものであふれかえっていることがわかってしまった。
 つまり、メディアというのはレモン市場なのだということが暴かれてしまったのである。
 中古車市場がレモン市場になってしまうと、客はだれも市場を信頼しなくなり、市場そのものが衰退してしまう。それと同じようにメディアもレモン市場であることが明らかになってしまうと、最終的にだれもメディアのことを信じられなくなってしまう。そういう問題が起きてくるのだ。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
第三章 メディアの神話
「レモン市場」で考えるフェイクニュース問題
"メディアは不確かなものであふれかえっている" より

しかし二十一世紀の日本社会は全盛期のような愚かな大衆社会ではない。頭の悪い人ももちろんいる。そうではなく、SNSによって、社会の中に散らばっているさまざまな専門家や職業人たちの「専門知」が表に出やすくなったということなのである。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
第三章 メディアの神話
「職能集団社会」が未来日本の民主主義を支える
より引用

この複雑さに対応するためには、さまざまな分野の専門知を持ち寄って、それらを共有していくしかない。それがSNSを通じた職能集団社会の可能性である。
(中略)
この私のツイッター連投には、「知識人のレベルなんて、311のずっと以前からそんなものだったのでは」というリプライも多かった。そうだったかもしれないが、311をきっかけに変わったことは大きい。
(中略)
もう一つは逆に理系の研究者や技術者などが、あらたな二十一世紀型の信頼される「知識を持つ人たち」として表舞台に立つようになったということだ。
そうした新たな「知識を持つ人たち」のぶ厚い層が、いまの「職能集団としての日本社会の良識」を支えているのである。
(中略)
ツイッターを日々ウォッチしていると、「知識を持つ人たち」の層のぶ厚さに驚かされる。
(中略)
 もちろん、昔から専門知を持つ人はたくさんいた。しかしマスコミしかなかった時代には、そういう広く共有されることはなかった。SNSの普及が、それを可能にしたのである。
 そのような専門知が交換されることによって、いまの日本社会全体の知は底上げしている。この集合知を信頼し、ていねいに見ていくことが大事で、それこそが陰謀論やデマに惑わされないために大切なことなのだ。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
第三章 メディアの神話
「職能集団社会」が未来日本の民主主義を支える
"日本社会の良識を支える新たな「知識を持つ人々」"より

新聞、テレビ、ネットにせよいずれも怪しく不確かであるという意見は私個人の感覚とも合致します。現状においては情報も、ある程度能動的に取りに行き、クロスチェックなどを行って精査しないとしっかりとした情報は得にくいと感じます。そして、しっかりとした情報を得るためにX(旧Twitter)を集合知に頼るというのは、私個人の観測範囲の知識を持つ方々のポストされる内容を見ても妥当であると考えられます。
個人的には本もよいと思いますが、どうしても本の執筆に時間がかかってしまうので、最先端の分野であると、即応性はSNS等と比べて一歩譲ると考えられます。一例をあげると、生成AIの書籍に関しては、ChatGPTの公開が2022年11月(今井翔太氏の『生成AIで世界はこう変わる』より引用)である一方、私の所持している生成AIの電子書籍の情報を見ると、西田宗千佳氏の『生成AIの核心: 「新しい知」といかに向き合うか』は"2023年9月30日に電子書籍版発行"、今井翔太氏の『生成AIで世界はこう変わる』は"2024年1月15日に初版第1刷発行、2024年2月1日に電子版第1刷発行"となっており、ある程度時間がかかっています(本の執筆に関しては、場合によっては取材なども必要なため、これは仕方のないことであると考えられます)。最先端の分野であれば、その分野の専門家をXでフォローしつつ、本を補完的に活用するような方法が良いと考えられます(なお、生成AIの場合、「自分で使って知見を得る」も選択肢として重要になると考えられます)。
一方で、そこまで即応性の求められない分野であれば、本の優位性は高まると思います。参考までに、直近で私の読んだ『HIGH OUTPUT MANAGEMENT』という本を参考に挙げます。この本はマネジメントに関する本ですが、巻末を見ると、1984年に早川書房にて出発された版をベースに、2015年に米国で出版されたペーパーバック板を翻訳したとあり、初期のバージョンから既に40年が経過しています。年数を考えるとかなりの年数が経過していますか、マネジメントに関しては、生成AIほど新規性は求められないと考えられるので、内容としては通用すると思います。

参考:『HIGH OUTPUT MANAGEMENT』に関して


2-3.第四章 右翼と左翼の神話

ではなぜ知識人は失墜したのか。最大の原因はSNSである。専門分野ではそれなりの業績をのこしているような大学の先生やジャーナリストが、専門外のことにコメントしたとたんに「あれれ……? この先生はそんなレベルの認識だったの?」と呆れられる、というような光景がSNSのそこらじゅうで目撃されるようになってしまったのである。知識人の一般的知識への薄っぺらさが露呈してしまったのだ。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
第四章 右翼と左翼の神話
"知識人の権威はなぜ失墜したか" より

引用者による補足:本note投稿時点ではX(旧Twitter)には"コミュニティ ノート"という機能が実装され、ポストした内容に注釈がつけられるようになっています。ポストした内容に対して、コミュニティノートによる注釈がついている比率が高いアカウントに関しては、気を付けたほうがよいでしょう(コミュニティーノートはおおむね妥当な内容の注釈がついているように感じます。そのような注釈に対し、アカウント側がどのような対処をとっているかもポイントになると思います。突きつけられた注釈に対し誠実に対処するか、無視するかは判断基準として機能すると思います)。

参考:「X」(Twitter)を信用できない人は誰? コミュニティ ノート数ランキングが登場

コミュニティーノートの実装以前から、誤った内容がポストされた場合、詳しい方が該当のポストをリポストする形で訂正をされていましたが、ポスト自体に注釈がつくようになったのは良いことだと思います。
ポストされた内容が誤っていた場合、ポストされた情報の分野の専門家からすれば、誤った情報の拡散は看過できないと考えられます。ご自身の時間を使って訂正される方には本当に頭が下がる思いです。
X(旧Twitter)時代から専門外の知識をポストして、その内容が引用リポストで訂正(Twitter時代だと"引用リツイート")という形で拡散してきたのを見ていた側からすると、「誤った情報を拡散する人たちは、なぜ自身の専門外の内容について口を出したがるのか?」や、「バズらせるために意図的に頓珍漢なことを言っているのではないか?」といった色々な考えが浮かぶのですが、このような現象に関しては、「明日は我が身」だと考え専門外のことには口をしないようにしています(私自身のX(旧Twitter)で活動している理由に"情報収集"があり、誤った情報の拡散は本意ではありません)。

このような「一部の人が過激になっているだけ」は日本の研究でも明らかにされている。慶応大学の田中辰雄教授と国際大学グロコムの山口真一准教授の『ネット炎上の研究』(勁草書房、二〇一六年)は、「ネット炎上」にかかわった人の数や特徴を定量的に実証分析した本である。炎上に加わって悪口や攻撃的な投稿をした人の数は、驚くべきことにインターネット利用者のわずか〇・五パーセント。個別の炎上事件になると、書き込む人の数は小数点以下三桁ぐらいに少なく、人数は数千人程度。
さらにその中でも、当事者を攻撃してアカウント閉鎖に追い込む人はせいぜい数人か数十人ぐらいしかいないという。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
第四章 右翼と左翼の神話
穏健化していた社会運動はなぜ先祖返りして過激化したか
"ネット炎上を社会現象規模で捉えてはならない" より

法政大学の西城戸誠教授らによる研究『戦後東京における社会運動の変容:イッシューリレーションアプローチによるイベント分析』(二〇〇七年)は、この変化を朝日新聞に掲載されたイベントや集会などの数と内容から定量的に調べている。この研究によると、一九八〇年代以降はイベントや集会そのものの数は大きくは減らなかったが、抗議や激しい形態のイベントは減少傾向にあったという。「抵抗」や「抗議」ではなく、住民や市民の主体的な活動に変化していったというのである。
(中略)
社会運動は、行政に関与して問題解決へと持っていく方向へと進んでいった。このあたりの流れは、一九八〇~九〇年代に新聞記者をしていたわたしの実感とも整合している。 そしてこの流れの先に、二十一世紀に社会運動にかかわっている若者たちの健全な感覚がある。
(中略)
しかしSNSでは、まったく逆に奇妙な先祖返りが起きている。まるで一九六〇年代の革命運動のような「抵抗」や「抗議」に没頭し、対立を煽る人たちが目立つのだ。 一つの理由は、先に書いたようなSNS特有の性質である。もともと攻撃的な少数の人々が目立ち、彼らが多くの犠牲者を攻撃するようになってしまっていることだ。 いまの若者たちに見るように、日本社会全体では穏健でリベラルな価値観が広がり、社会に参加して改善していこうという運動が増えている。しかし、その状況に不満な人たちが先鋭化し、特定少数のグループをつくってSNSで攻撃を重ねているという実態がある。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
第四章 右翼と左翼の神話
穏健化していた社会運動はなぜ先祖返りして過激化したか
"革命の闘士たちはマスメディアへと流れた" より

二〇〇七年問題とは何か。二〇〇七年は、数の多い団塊の世代が大量に企業から退職するようになった年である。当時はそれを「団塊の社員たちが持っていたさまざまなノウハウやスキルが失われる」という文脈で語られた。しかし彼らの大量退職は、いまでは別の意味も持つようになっている。
(中略)
二〇〇七年に退職した団塊の世代は、二〇一一年頃からツイッターに大量に流入するようになる。高齢者と思われるようなプロフィールをよく目にするようになったのは、この頃からである。彼らが福島第一原発事故と第二次安倍政権に不安を感じ、そして青春時代の革命運動への憧れを再燃させ、それが彼らを「抵抗」「抗議」へと目覚めさせ、過激化していったのではないだろうか。
これは定量的に調べた結果ではなくあくまでもわたしの推測でしかないが、時間的な整合性はある。最近の政治的に過激なツイッター投稿の文面には「日和見主義者」「政権のポチ」「首を洗って待っていろ」など現代ではほとんど見ない、まるで昔の過激派の機関紙の言いまわしのような文言さえ使われるようになっている。ツイッターだけを見ていると、まるで一九七〇年代の内ゲバ闘争を眺めている錯覚に陥るほどだ。 要するに現在のツイッターは、団塊の世代の青春回顧なのである。そしてこういう青春回顧運動を、革命運動からかつて人材を大量に引き受けたマスコミが支えるという奇妙な構図ができあがっているのが、二〇二〇年代の日本のメディア空間なのである。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
第四章 右翼と左翼の神話
穏健化していた社会運動はなぜ先祖返りして過激化したか
"ツイッター過激化の背景に団塊の世代の参入" より

大人としての成熟というのは、過剰な清潔さ、過度なピュアであることから脱却していくということである。若い頃の理想はいつでも素晴らしい。しかし大人になって社会への認識が高まると、素晴らしい理想だけでは社会は回らないことが実感としてもわかってくる。現実の汚らわしさも直視しなければならなくなる。しかし理想を捨てることもせず、汚い現実も直視し、地道に社会を改善していこうとするのが成熟した大人らしさである。
 成熟は、過度に清潔であることから脱し、汚れも自分の人生の一部として引き受け、そういうグレーの地点を自分の居場所として納得させるということなのである。

「この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力」
第四章 右翼と左翼の神話
自由を侵そうとする人たちはなぜ右派から左派に移ったか
"清潔さへの過剰な傾斜で排除される人々" より

3.感想

現在だけの話ではなく、各トピックに関する歴史にも触れており、歴史を見ながら状況を俯瞰できる良い本だと思います。
個人的に特に良いと思ったのは第三章で出てきたSNSを用いた知見の共有の部分です。私が以前書いた、「決めるということ」というnoteがありますが、どちらかというと「個人」での意思決定を念頭に置いた内容でした。しかし、生活を行う上で、「個人」の意思決定だけしか行わないという方はまれだと思います。「集団」(組織など)で意思決定を行う局面というのは出てくると思います、集団内での知識の共有というのは必要になってくると思います。
私が読んで、noteも執筆した「HIGH OUTPUT MANAGEMENT」という本はマネジメントに関する書籍なのですが、その中に以下のような一文が出てきます。

われわれのビジネスでは、毎日、知識パワーを持つ人々と地位パワーを持つ人々を結びつけなければならない。彼らが一緒になって向こう何年もの将来にわたってわれわれに影響する意思決定をする。もし、正しい意思決定を得られるようにエンジニアたちとマネジャーたちを結びつけてなければ、われわれの業界では成功できない。

「HIGH OUTPUT MANAGEMENT」
理想的なモデル より
なお、著者のアンディ・S・グローブ氏はCPUメーカーとして著名なインテル社の元CEOです。

上記の引用部分のうち、"われわれのビジネスでは、毎日、知識パワーを持つ人々と地位パワーを持つ人々を結びつけなければならない。"の一文は、組織内で知見を共有することの重要性を書いたものだと解釈しています。組織が意思決定するうえで決定権がある人には組織内の知識のある人の知識が共有されていないと、正しい意思決定ができず、成功に結び付かないというのは妥当であるように感じます。

4.取り上げた書籍

この国を蝕む「神話」解体 市民目線・テクノロジー否定・テロリストの物語化・反権力 Kindle版

HIGH OUTPUT MANAGEMENT Kindle版

生成AIの核心 「新しい知」といかに向き合うか (NHK出版新書) Kindle版

生成AIで世界はこう変わる (SB新書) Kindle版


5.関連note

「決める」ということについて

読書記録(2024年)

こちらのnoteでは、"4.取り上げた書籍"で取り上げた書籍が掲載されています。

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