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交際中のお金と割り勘と転職
気付いたら涙が伝っていた。
彼に謝られてから気付く。
彼に怒られたから悲しかったのではないし
余裕がなかった。
いつもみたいに笑ってスルーできることが
その日はできず
「ごめんなさい。」
と端的に伝えるだけで精一杯だった。
「こらー!お米をダメにした件ではよ起きてきんしゃい」
大急ぎで入浴を終え、鍋に火をかけて
ドライヤーの音をさせながら
彼は私を呼んでいた。
私はごめんなさーい、とおどけながら
ベッドから起きられずにいた。
日中、明けで帰ってきたときは
元気いっぱいだと自分では思っていたのに。
縞模様のある百合を飾り、
啓翁桜を隣の花瓶に活けて私は満足していた。
昼ごはんには遅く、夕飯にはかなり早い時間だった。
保温されている米を、一旦取り出して
新しく炊くのは面倒だと思い
2回ほどパカパカした後
ラテをつくり、洗濯をして
長風呂をし
気分よく猫を抱きしめて眠った。
彼からLINEが来た時、画面を見るのもおっくうで
私は寝返りを何度も打った。
どたばたと音を立ててリビングが開けられたのが分かった。
「こらー!お釜あけっぱじゃないか。
ごはんがカピカピだよ。」
彼はがっかりした声で言っていた。
私は忘れちゃった、寝ぼけてるわと答える。
つとめて明るく。
「どうすんのこれ。もー。」
2日間の拘束時間の合計は、
私の方が短いが
おそらく、さまざまなストレス耐性を加味すると
私のHPはマイナスだった。
「ごめんなさい。」
「まったくもー」
と小言を続ける彼のところへ
跳ね起きて行って、抱き着く元気は
私には残っていなかった。
「灯油、対応してくれたんだね。補充もしてくれたんだね。」
「食材買って、たくさんスープ作ってくれたんだね。」
「風呂、洗って溜めておいてくれたんだね。」
入浴剤の香りをさせて彼は寝室に来た。
動線の中で、さまざま気付きがあったみたい。
私は布団に沈んでいて、
「おつかれさま」と答えた。
「何時に寝たの、昨日」
「寝てない。」
えっ、と彼は驚いた。
「ずっと対応に追われてた。」
「…ごめん。」
「ううん、あなたと夜ご飯食べようって思って
ごはん我慢したけどダメにしちゃってごめん。」
彼は私の頭をそっと撫でた。
気付いたら枕カバーが濡れていた。
「ごめん。責めるようなこと言って。君の状況を分かってあげられなくて。」
違う、あなたのせいじゃないと思ったけれど
彼は彼なりの責任感で言ってくれていた。
だから「ううん。」と答える。
「なんとかせんといかんな。君の会社は。」
かぴかぴごはんは、キムチおじやに変身していた。
私は傾聴したあと
「でもその分経験者じゃない人もすくいあげて安定させてくれるからね。
私はありがたいと思ってるよ。」
とだけ言った。
たしかに、と彼は言う。
「人事異動があれば、楽な状況になる可能性があるし
なくたって経験値があがる。」
私はそう言って、話題を彼の仕事にうつした。
〇〇さんとは一緒だったの?今日もがんばったね。
彼も彼で労力を払い、長時間頑張ってくれていたのだ。
集中して戦ったのだ。視野が狭くなるのはお互い様でしょう。
彼はカードを取り出し、
切なそうな目で私に渡した。
ぎゅっと抱きしめた後に言った。
「好きなもん買いな。ドーナツ買ってもいいから。」
それで伝わる。
彼なりの気遣いが。
ごめんねも。
「昨日のおじや美味しかった。」
会話がちぐはぐなのに、彼にも伝わり、
空気がほころぶ。
働き、金を稼ぐことは
当たり前とされていても大変だ。
だからこそ割り勘問題は叫ばれる。
どんな時代にも。
転職したてで、彼は経済基盤について余裕をもてていなかった。
彼が自主的に払うと言ったものには乗っかり、
おおよそ割り勘・折半にした。
私といえば、自分のものは自分で払い
こまごました日用品の類は請求せず黙って補充していた。
「あなたの食費も折半にしよう。転職したてのうちは。
で、ボーナスが出たらなんか買ってね」
と伝えていた。
彼は恐縮していたので、
ちいさなものをおねだりしてバランスを保った。
給料日を過ぎて、彼は自信を取り戻したようだった。
だからカードを渡してくれたのだ。
私はドーナツも花も買えるくらいには安定できているが
それは会社が給与という形で私の時間を買い取っているから。
その金をつかうより
彼の気遣いで得られる方がよりありがたいと思う。
奢って貰うということ。
金額は小さくてもよい。
「あなたに買ってもらうのが好きなのに。でも、今日これで買って
またデートの時にも買ってもらえばいいね。」
と私は笑った。
彼はほっとした顔をして、そうだねと同意した。
私は思い出す。
彼が転職する前。
一生懸命デート費用を工面し、
時間と労力を払ってくれた
彼の背中を。
だから私は、いつ彼が困ってもいいように
お金をためている。
どんな苦労だって厭わない。
残業だってこなす。
そんなキャパがなくても。
長い目で見て安定する方を選び続ける。
自分が。2人の人生が。
一本の茎から、たくさんの花が咲いている。
桜もつぼみがやや膨らんでいる。
私はカーテンを開けて
お日様がより当たるように花瓶の位置を調整した。
大人は本当にいろいろあるから
愚痴という形で相手に伝えるよりも
お花なり、おいしいものを食べるなり
運動するなりして
やり過ごす方が私には合っているように思う。
持ち帰った仕事を、
ささっと片付けてから出かけよう。