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写真に残すように文に残すサービスをすると決めた理由
忘れたくない記憶がある。
でも、人は忘れてしまうし、記憶は形を変えてしまう。
記憶は変容するものだ。
大学時代、認知心理学の講義でその事実を突きつけられた私はショックを受けた。
覚えていたい思い出も、ただ覚えておくだけでは自分の気持ちと関係なく形を変えてしまうし、ほろほろと忘れていってしまう。
無常だ。
ばっちり覚えていると自信のある記憶たちももれなくその可能性を秘めていることに悲しくなった。
忘れられるのも人間のいいところ。
そういう見方ももちろんできる。
だけど、人間は嫌なことの方が記憶に色濃く残りやすい。
ネガティビティバイアスという心理学用語まで存在していて、ポジティブよりもネガティブな情報に注意を向けやすく記憶にも残りやすいという(注意や意思決定にも影響するが、今回は記憶に着目)。
幸福な思い出よりも辛い経験の方が鮮明に記憶に残るのは、危険から身を守るための心理傾向と言われている。
うん。分かる。身を守るためにも嫌だったことは覚えておかなくては繰り返すからね。
それですべて納得、オーケーです。
……なんて、物分かりのいい人間ではございません。
忘れる挙句、嫌な思い出の方が記憶に残るだあ?
嫌に決まっておろうが。
それでしんどい思い、たくさんしてんねん。
その分、楽しくて幸せなことを思い出して、ウフフってしたいねん。
シンプルにいいことを忘れてしまうのは悔しい。
いいことを覚えているかと思えば、そのいいことさえも形を変えていってしまうなんて、私としてはたまったもんじゃない。
その心と脳の仕組みに抗いたくて、私は記憶を記録することを意識し始めた。
嫌な思い出を残してしまいがちでも、せめて、いい思い出を思い出す回数を増やしたい。それに、嫌な思い出を必要以上に悪くしてしまうことも回避したい。
事実は事実のままに、新鮮なままに残していたい。
忘れたくない。
これは、傲慢なことなのだろうか。
いやいや、傲慢じゃないわ。
忘れていたくない記憶を保持しようとして何が悪い!
それを傲慢と言うのなら、その傲慢さが歴史を継いできてくれたんじゃないか!
歴史的事実だけに価値があるのではない。誰か一人とでも関わりを持って生きている時点で、自身のそれまでの経験やそれに伴う想いも確かな価値がある。それらがその人たらしめるのだから。
世界的に、国家的に……そんな大きな括りだけが価値を決めるのではない。目の前にいる人が、自分自身が、一つひとつの価値を決めていく。その小さな決定が、小さく見ていた価値を水面の波紋のように広げて大きくしていく。
自身の持つ事実だってもっともっと堂々と大事にしていいはずなんだ。
それを唱えるだけでは意味がない。地団駄を踏んでいてもどうしようもない。
だから、ちゃんとかたちにしていきたい。もっと身近な記憶を大事にすることを体現したい。
そのかたちを考えてたどり着いた答えが、私にとっては紙の本だった。
何か媒体を介さなくても、本というかたちで直接触れて、記憶と想いを読みとることができる。いつでも思い出すことができる。誰かにつないでいくことができる。
これはとても尊いことではないだろうか。
写真に残すように文に残す。
より鮮明にその記憶と想いの輪郭を残していく。
撮りためた写真でアルバムを作るように、書き綴った日記や頭の中で溜め込んだエピソードを本にする。
そんな選択肢を作っていきたい。
そしてこの選択肢も波紋のように、ちっぽけな一人からでも広げていけることを証明したい。
なーんにも成し遂げられてない人間。
でも、憧れたあの人のインタビューを読んでも最初は同じくなーんにも成し遂げられてないことが多いのだ。
だから、私もへこたれずに信じてもがいてもがいて、かたちにしてもいいよね。
今回は「私には何もできない」なんて逃げて諦めたりしないんだから。
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