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1になるための成長を感じた三つ子の話

姉妹の2号(三つ子次女の愛称)とビデオ通話をしていたときの話だ。
私も2号も物語を書く。私は小説や演劇脚本、エッセイ、詩、コピー、広報記事を。2号は小説とTRPGのゲームシナリオを。
ただの雑談のひょんな拍子で、物書き同士、どう書いているのか頭の中を開くようなイメージで語り合った。
これがまあ、同じDNAなのに違う。
書くとき「脳内で映像が再生される」まではよかったのだが、その再生の仕方が違う。

2号は私の感情は介入していないという。
その物語に伝えたいメッセージもない。脳内で映像は再生されているけど、いわばカメラの立ち位置でただその様を書き出しているに過ぎないと。
「このシーンを書きたい!」から物語の創作が始まるらしい。
私は逆で、感情が介入しまくりである。
伝えたいメッセージが第一にあり、そこからキャラクターを設計し動かす。2号がカメラならば、私は監督ポジション。「このメッセージを伝えたい!」から物語の創作は始まる。物語が進み始めるとキャラクターを憑依させて書き出す。なので、書きながら怒るし、泣くし、病むしで少々面倒臭い人間になる。

カメラ視点か、監督・キャラクター視点か。
なんとなく感じていた文体の差がここにあるように感じた。
2人して面白い面白いとお互いを褒め合った。平和である。

この平和な時間も、私にとっては大きな成長だ。
自分に自信がなく、アイデンティティを探しまくっていたときは、2号が物書きをするたびに「私の唯一のアイデンティティがぁ!」と悲鳴を上げていたし、書いたものが評価されるたび「私は駄目だ」と落ち込んでいた。
いつだって、2号は私の書いたものを読んでは褒めてくれていたのに、その言葉を足元に落としまくっていた。
三つ子というひとまとまりにされることが多かったからこそ、明確な違いを出さなくてはと必死になっていたけれど、そうじゃなくていいと思えるようになったのはここ数年の話だ。
何度も自分自身との対話を繰り返して、私個人の概念と私たち三つ子の概念を何年も掛けて切り離せるようになった。
今では、私は私だから書けるものがあり、2号には2号だから書けるものがあると捉えることができている。「アイデンティティがぁ!」と地団駄を踏むこともない。
当たり前なのにね。でも、その当たり前が、私には難しかったんだよ。

数年前、あるイベントに三つ子で登壇したとき、3号(三つ子三女の愛称)が「3人で1だったけど、今やっと、一人ひとりが1になり始めた」と言ったことがあった。
1にもなれていなかった私たちがそれぞれの道を自分の足で歩み始めて、自分の1を作っていっている。本当にその通りだと思った。

その過程で刺した小さなピンが、物書き同士の称え合いだったのだ。
こういう小さなピンがこれからもどんどん増えていったらいいな。

まだまだ、私は私を探している。
1になれるようにもがいている。
何度も向き合って、言葉を紡いで、自分と対話して、少しずつ前に進むのだ。
その血の運命さだめよと自分を鼓舞しよう。楽しみながら。
きっともがいた先は、今よりもとってもいい人間になれていると信じてる。


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屈橋毬花 | 【紙に月】
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 自分の記録やこんなことがあったかもしれない物語をこれからもどんどん紡いでいきます。 サポートも嬉しいですが、アナタの「スキ」が励みになります。 ……いや、サポートとってもうれしいです!!!!