【立花隆「知の巨人」の素顔】私とは波長が合わなかった「形而上学論」|佐藤優
文・佐藤優(作家・元外務省主任分析官)
佐藤氏
「形而上学を一切認めない」
知の巨人で、無類の読書人であった立花隆氏が4月30日に亡くなった。とても残念だ。同時に一つの時代が終わったことを実感する。少し大げさな言い方をすると近代の終焉だ。私は立花氏を客観性と実証性を重視する近代を代表する知識人と考えている。
立花氏の仕事は、政治、思想、哲学、生命科学、宇宙、サル学、ガンなど多岐にわたる。いずれの分野においても立花氏は、客観性と実証性を重視する。対して私は、客観性や実証性は、人間を動かすにあたって実に弱い概念で、簡単に物語に包摂されてしまうと考えている。
立花氏の知性は、私とは、ほぼ対極にあると言っていいくらい異質なものだった。私はそのことを、2009年に立花氏との対談本『ぼくらの頭脳の鍛え方』(文春新書)を上梓したときに実感した。最初は小さなきっかけだった。新約聖書の翻訳に関して、無教会派の塚本虎二が訳した『新約聖書 福音書』(岩波文庫)が参考になると言った。すると直ちに立花氏が首を横にふった。翻訳の内容には踏み込まず、「僕は最初、塚本虎二の運営する寮に入っていた。そこでキリスト教がすっかり嫌になった」という話をした。立花氏は無教会派の家庭で育った関係で、聖書については、「門前の小僧、習わぬ経を読む」というスタイルで身についている。大学生になってから、本格的に哲学を学ぶ過程で、キリスト教など超越的要素を含む思想に対して、強い忌避反応を抱くようになった。私は立花氏に端的に「形而上学を一切認めないわけですね」と尋ねた。立花氏は「そうです、僕は形而上学を一切認めない」と答えた。形而上学を認めるか認めないかという問題は、誠実な討論によって結論は出ない。立場設定の問題だ。お互いの基本的立場の違いを確認して、議論を先に進めることにした。
立花氏
立花氏は『中核VS革マル』、『日本共産党の研究』など共産主義運動に関連する優れた作品を残している。従って、マルクスの著作は比較的よく読んでいる(もっともマルクスの主著である『資本論』に関しては、まったく関心を持てず、まともに読んでいないようだった)。特にマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を立花氏はよく読み込んでいた。
しかし、マルクスのこの作品に対する立花氏の評価は極めて低かった。その理由はナポレオン三世の政治に関する実証研究がマルクスに欠けているからということだった。私は、マルクスが政治的に組織化されていない分割地農民に着目し、代表を送り出す人々と代表される者の間には合理的連関がないので、代議制度(間接民主主義)において、有権者が自らの利害に反する人を代表として選び出すメカニズムを解明し、民主主義的な民主主義を破壊する内在的論理を解明したマルクスの論法は現在の政治分析にも応用できる有益なものと考えている。しかし、立花氏と認識と評価の一致を得ることはできなかった。
「目には見えないもの」について
立花氏が政治理論として魅力を感じていたのはカール・ポパーだった。立花氏は、ポパーの『開かれた社会とその敵』の方法論に全面的に依拠しているように私には思えた。プラトンやマルクスのように、目的論的に理想的な社会を設定する思想を拒否する。そして、面前にある課題を一つ一つ具体的に処理していくピースミール的な手法を立花氏はポパー同様に称揚した。
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