マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール|サアディの薔薇
Test|Seiji Shimada
マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール|
Marceline Valmore(1786-1859)
ヴァルモールはジョルジュ・サンドの誕生からさかのぼること18年前、フランス北部の町ドゥエで生まれた。彼女は女優であり、同時に19世紀ロマン主義文学を代表する女性詩人だった。同時代のヴィクトル・ユゴーや批評家サント=ブーヴに高く評価されていたが、ロマン主義の流行が去るとともにその名は忘れ去られることとなってしまう。
彼女の父親は紋章絵師だったが、革命による貴族の亡命で職を失い、彼女は生活のために幼い頃から女優としてドゥエ、ルーアン、パリのオペラ・コミック座など各地の劇場に出演した。この頃の女優たちの生活は厳しく、「花束を投げてもらいました。でも、私は飢えで死にそうでした。」と後に書き残されているほどである。舞台では初々しい少女役を得意とし、当時の人気女優だったマリー・ドルヴァルとも交友があったという。また、パトロンの一人にはダヴィッドの絵画で知られるサロンの花形、レカミエ夫人もいた。
彼女が詩を書くようになった理由は諸説あるが、生活苦のなかで健康を失ったさい、彼女を診た劇場付きの医師に勧められたことがきっかけだった。
恋多き青春を過ごした後の1817年、ヴァルモールは31歳で俳優のプロスペルと結婚し、5人の子どもをもうける。1819年には最初の詩集『悲歌と恋歌』を出版。この作品が大きな評判を呼び、その後も数々の詩や物語を発表するが、彼女の作品には常に苦しみと貧しさが背中合わせだった。生涯を通じて困難に直面しながらも、溢れ出してやまない率直な感情と激しい情熱、それがヴァルモールの魅力となり、文学史に名を残す偉大な花となったのである。
詩に寄せて——
『悪の華』で知られる詩人ボードレールは、マルスリーヌをこう評している。「女性的なるもののあらゆる美しさを並外れて詩的に表現した女性だった。」この言葉通り、彼女は詩という手段で、「女性らしさ」を芸術として極限にまで高めたと言えるだろう。それがたとえ社会的役割であったとしても、彼女は「女性らしさ」を完全に自らのものとし、そこに美学を見出したのである。
情熱的な恋愛を多く歌ったヴァルモールの詩のなかで、『サアディの薔薇』は少し異色であるかもしれない。この詩は、彼女が20年以上も長きにわたって友情を育んだ批評家のサント=ブーヴに宛てたものであるとされる。サント=ブーヴは彼女のために様々な手助けを惜しまず、多くの誌上で彼女の詩を絶賛した。『サアディの薔薇』は、そんな尽力に対する感謝の気持ちを込めて書かれたのである。
薔薇といえば愛の象徴であり、愛はいつの時代も詩人にとって最高のミューズであり続けた。しかしヴァルモールは、空に舞い、海をいっぱいにするほどの薔薇を“友情”に喩えた。利害も恋愛感情もない、しかも男女間での友情である。性愛と友情は時に天秤にかけられ、まったく性質の異なるものとして扱われがちだが、ヴァルモールはそれらに共通する「情熱」の可能性を我々に示して見せたのかもしれない。
それから、詩中で語られる薔薇の不在と余韻にも注目するべきだろう。今ここにはない薔薇を語るということ、その香りだけが留まっている様子はどこか音楽的であり、舞台の幕が下りてまもない女優ヴァルモールの姿が浮かぶような……
最後に、『呪われた詩人たち』のヴェルレーヌによる言葉を引用する。
参考文献
1)ポール・ヴェルレーヌ著|倉方健作訳『呪われた詩人たち』|幻戯書房
2)石邨幹子訳編『サアディの薔薇 マルスリイヌ・デボルド=ヴァルモオルの詩と生涯』|[サアディの薔薇]の会
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本記事は、モーヴ街7番地《SCRIPTORIUM|菫色の写字室》内「佐分利史子の写字室」と連動しています。
作品名|サアディの薔薇
ガッシュ・アルシュ紙
作品サイズ|21.5cm×35cm
額込みサイズ|28cm×41.7cm×2.6cm
制作年|2020年(新作)
カリグラフィ作品の詳細は以下をご高覧下さい。
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