アヒルの子は醜かったのか?
九條です。
挑発的なタイトルですみません。
アンデルセンの童話に『みにくいアヒルの子』がありますね。この童話から「多様性」をちょっとだけ考えてみたいと、ふと思いました。
はじめに
じつは、私はこの童話に対して(その情緒的な捉えかたに対して)大学生の頃、ですから、いまから35年ほど前のことですが、少し違和感を抱いていました。
この童話のあらすじは…
という話ですね。
タイトルとストーリー
まずタイトル。この『みにくいアヒルの子』というタイトルは、アヒルの親や子たちからの視点ですね。白鳥の親や子たちから見ると「みにくくない普通の子」ですよね。
次に話のあらすじなのですが、アヒルの子が白鳥になったわけではないですよね。もともと白鳥の子だった(白鳥の卵が紛れ込んでいた?)から、やがて成長して美しい白鳥になった。アヒルの子は、どこまで行ってもアヒルの子。アヒルの子はアヒルにしかなれない。
アヒルの子がどれだけ「綺麗なアヒルの子」であったとしても、どうやっても白鳥になることはできない。アヒルの子が白鳥になることは絶対にない。これは当然の話ですね。
違和感の正体―現実をみつめる
アヒルの子はアヒル。白鳥の子は白鳥。アヒルの子は白鳥にはなれないし、白鳥の子はアヒルにはなれない。
当たり前ですね。それが自然の法則。それが運命。それが世の中の仕組みというもの。それが現実の厳しさ。そこを勘違いしてはいけない。誰も何処も悪くはない。誰にも何処にも罪はない。すべては自然の理に適っていること。自然そのもの。
翻って、アンデルセンの『みにくいアヒルの子』の話は、白鳥の子が白鳥になったという話でした。アヒルの子が白鳥になったわけではない。
繰り返しますが、白鳥の子が白鳥になったという話です。しかし私が抱いた「違和感」の正体は、まるで、醜い姿だったアヒルの子が成長して美しく立派な白鳥になったという印象を受けることでした。
この話の肝要は、アヒルの世界の中でアヒルの子たちに白鳥の子が混じっていたから、白鳥の子はとても生き辛い思いをしたということですよね。
まとめ―多様性のありかた
昨今の「多様性を考える」「多様性を認め合う」「多様性を尊重する」という価値観の視点に立てば、アヒルにはアヒルの輝く個性があり、白鳥には白鳥の輝く個性がある。
それぞれの個性は別々のものであり、他と比較するようなものではなくて、何ものにも替えがたい価値がある。そしてそれぞれの異なった価値を認めあい、尊重しなければならない、ということですね。
けれども万が一、アヒルの子が「自分は白鳥だ」と偽ったり「自分は白鳥になりたい」などと望む場合には、そのアヒルの子に対しては周囲が「君にはアヒルとしての素晴らしい輝く個性がある」と教えるとともに「君は白鳥にはなれない」という厳しい現実をもしっかりと教える必要があると思います。
それを「白鳥になりたいアヒル」もひとつの個性なのだから、多様性を尊重するならば「アヒルが白鳥になる努力」も認めてそれをサポートし「アヒルが白鳥になれるように社会を変えていかなければならない」などという発想をしだすと、やがてこの社会は崩壊してしまうだろうと思います。
©2022 九條正博(Masahiro Kujoh)
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