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作者不在のインスタレーション
一体何のために在るのだろう。時間の経過によって、本来持っていた価値や役割を失い、朽ち果てるのをただ待つかのようにそこに在る、ゴミと呼ばれるものたち。
もし街に「端」なんていうものがあれば、間違いなく端っこに追いやられて誰にも見向きもされない。
ある日、カメラをぶら下げて散歩をしていた時のこと、太陽が沈み始める夕方近くに土手に降り、自分よりも背の高い枯れ草を掻き分けて川へ向かって歩いていた。
しばらく歩くと鬱蒼としていた枯れ草が唐突に途切れ、そこには細い小さな道のようなものができていた。その道の脇にはビニール傘や、キャンプチェアやスチール製のゴミ箱のようなものが転がっていて、 その先にはテントのような小屋が建っていた。
それはいわゆるホームレスが作った家なのだが、今は生活の気配は感じられず主を失った抜け殻のように見える。
私はなぜかこれを撮らなければと思い、取り憑かれたように夢中でシャッターを切った。
撮影後の帰り道、撮らされたようなあの感覚は何だったんだろうと考えた。
撮った写真を見返すと、どうもこの小屋を含む辺り一帯が醸す空気というのが、 実は誰かに見せるために作られたインスタレーションのように思えて仕方がない。
決して人に見せるために作られた訳ではないのに、「 見ろ」とばかりの強烈な存在感に、私はその第一発見者として「記録したい」という欲求に駆られたのではないだろうか。
そう考えると、街の「端」に追いやられた全てのものが、私にとっては作者不在のインスタレーションに見えて、事あるごとに街の端を歩いては「作品」を求めてシャッターを切るようになった。
いつかそうやって撮り溜めたものを展示をしたいと夢想していると、日曜美術館ならぬ「日常美術館」というダジャレめいたタイトルが浮かぶ。
我ながら言い得て妙だと思ったが、残念ながら既にその名称を使ったSNSのアカウントが存在するので使えないのである。
![IMGP1402のコピー](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/78852800/picture_pc_8cc58ce21db02d688e07edf5719fbd10.jpg?width=1200)