Naoki

写真だったり文章だったり

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最近の記事

縦で撮る

今回はたかだか5枚の画像だけどテキストは無しで。 機材は、PENTAX 645DにレンズはFA 645 f2.8/75mm。

    • 5年ぶりに見るフォビオンの凄味

      というタイトルを付けたが、長らくLeicaのM8をずっと使っていた。 僕にとってM8は、写真を通じて自分の世界を切り拓いてくれたとても大切なカメラだけど、2018年当時はM8に、いやレンジファインダーというカメラに不自由さを感じていて、自分の写真に対して何か変化を求めていた気がする。 そもそもレンジファインダーのカメラは、近いものは撮れないし、オートフォーカスも無いし、厳密なフレーミングも難しい。 当時の僕は、そんなレンジファインダーの特性がことごとく裏目に感じられ、新しい

      • 作者不在のインスタレーション2023年1月

        2023年はまだ撮り始めをしていない。 タイトルは2023年1月としているが、セレクトしてここにアップしている画像は2022年以前のものになる。 ハードディスクを見返しているが、相変わらず撮影者の自分にガッカリさせられているので視るのがとても苦痛だ。しっかりしろ撮る自分。 直近から過去へ遡って視ていると、どこかの誰かが創ったに違いないであろう「作者不在のインスタレーション」と、僕が勝手に思っているものに決まって目が留まる。 それらは街に溶け込み馴染んでいるように感じられる

        • 写真を「撮った」自分とそれを「視る」自分

          前回の投稿でも書いたが、撮った自分とそれを視る自分には大きな隔たりがある。撮った自分に対して、視る自分はとても厳しい。 両者の間に一体何があるのか、まるで別人のようだ。 普段撮影する時はあまり考えずに直感的にシャッターを切る。その場でプレビューはせず、家に帰ってPCに取り込んで初めて見る。 撮影機材はデジタルなので、撮ったその場で見て、気に入らなかったら撮り直せば良いのかもしれない。 でも撮ったその場でプレビューして撮り直したところで、大抵は最初の1枚を超えられないことが多

          久しぶりに写真を撮って思うこと

          前回の投稿から半年が経っていた。続きものを書いていたが、書かなきゃというプレッシャーからどんどん筆が遠ざかり、気づけばこの様である。続きは書けないし、書かない。 全くもって情けない。 ここしばらく写真を全く撮っていなかった。 今までなら仕事が休みの日はもちろん、仕事の行き帰りでもカメラを持って1枚でも2枚でも写真を撮っていたが、最近は全く撮る気になれず、休みの日も外に出ず家で過ごすことが多くなっていた。 撮らなくなってしまった理由を書くと、またとんでもなく長い内容になってし

          久しぶりに写真を撮って思うこと

          忘れてしまうことはわかっているから#2

          前回の投稿から随分と日が空いてしまった。 読み進める前に、まずは前回の投稿からご覧いただきたい。 その予感が的中した理由を説明する前に、背景について触れておく必要がある。 今から約15年前、当時僕はとある役者事務所に所属していた。 役者は僕を含めて10名ほどで、スタッフは2名、社長のTさん(以下、T社長)は女性でマネージャーも兼任、もう1人のマネージャーは僕と同年代でT社長のひとり息子(以下、K君)という小さな所帯である。 そして社長の元夫であり、K君の父親というのが、他で

          忘れてしまうことはわかっているから#2

          忘れてしまうことはわかっているから#1

          スーツの内ポケットで携帯電話が着信を伝えるべくブルブルと震え出した。仕事中なので出られなかったが、立て続けに同じ番号から3回着信があった。 今はメールやLINEでやり取りすることがほとんどで、電話がかかってくるのは珍しく、しかも繰り返しかかってくることなんて滅多にないから、何だか嫌な予感がした。 トイレに行くふりをして席を外し、携帯電話を確認すると、見覚えのある番号だった。 それはかつて役者として所属していた事務所の社長からだった。 役者を辞めてもう4、5年は経つだろうか。

          忘れてしまうことはわかっているから#1

          2018年のステートメントより

          何者でもない自分が、写真を撮っているあいだは、その1枚1枚で起こっているであろう物語を、映画館の特等席で見ている観客のような気がしている。 街には日々、語られることのない小さな物語の断片が無数に散らばっていて、それらを無作為に切り取っては、ああでもないこうでもないと勝手につなぎ合わせてみる。 そうやって紡がれたデタラメな物語を見ていると、なんだかかつて見たような、それでいて前から見たかったような不思議な感覚を覚えるのである。

          2018年のステートメントより

          作者不在のインスタレーション

          一体何のために在るのだろう。時間の経過によって、本来持っていた価値や役割を失い、朽ち果てるのをただ待つかのようにそこに在る、ゴミと呼ばれるものたち。 もし街に「端」なんていうものがあれば、間違いなく端っこに追いやられて誰にも見向きもされない。 ある日、カメラをぶら下げて散歩をしていた時のこと、太陽が沈み始める夕方近くに土手に降り、自分よりも背の高い枯れ草を掻き分けて川へ向かって歩いていた。 しばらく歩くと鬱蒼としていた枯れ草が唐突に途切れ、そこには細い小さな

          作者不在のインスタレーション

          静まり返ったいつかの深い夜に

          ベランダでこの文章を書いている。風呂上がりの火照った体に吹く夜風、焚いたチャンダンの香りと相まってとても気持ちが良い。 ここしばらくすっきりしない天気が続き、春という印象からは遠い、鬱屈した気分で過ごしていたので、こうやってベランダで物思いに耽ることができるのはささやかな癒しと言える。 時折、遠くで車の走る音が、どこかの家からはテレビの音が、家の前の通りからはコツコツと歩く人の足音が聞こえる。生活のBGMだ。 目を閉じてみる。そうすると人の生活は確かに感じるのに、不思議と

          静まり返ったいつかの深い夜に

          食事は「できた順番で持ってきて良いです」

          本当は家でじっくり書く作業をしたいけど、ついテレビやYouTubeを見たり、ブラウンジングしてしまったりで気が散って全然書けないので、余計なことができない状況に身を置くために外に出ることにする。 ということで喫茶店にやって来た。 テーブル席に座り、アイスコーヒーとナポリタンを注文した。ホールの女性から、「飲み物は食後でよろしいですか?」と聞かれたので、喉が渇いていた私は先にアイスコーヒーを持ってきてもらうようお願いした。 早速書こうとメモアプリを立ち上げる。頭の中には言葉

          食事は「できた順番で持ってきて良いです」

          自分のために強制的に書く

          と宣言してみたが、早速筆が進まずに派手に躓いている。 何か書きたいことやテーマがあるわけではない。 いや、正確には無いこともないけど、明確なところはまだ掴めていない。 日々頭に浮かんだ思考や想いは留まることなく消えていき、思い出すこともできず、悶々とした苦い感覚だけが残っている。 目に見えない浮かんでは消えていってしまう思考や感情の断片を、濁流の中から手を突っ込んで掴み取り、それらを自分なりの言葉に変換して可視化して留めておきたいという想いがある。 だが、こう書いて

          自分のために強制的に書く