【エッセイ】雨の音が私を肯定してくれた

雨が降ったとき、
どんな感情になるだろう?


どんよりする?
それとも、わくわく?


外出予定がある日なら、
マイナス感情を抱くことは間違いないだろう。

長靴デビューしたばかりの子どもなら
喜ぶかもしれない。



私は「安心」する。
雨が降る、それが判断材料だから。




私は天気が読める。


別に天気予報士なんてそんなすごい資格を
持っている訳じゃない。
ただの偏頭痛持ちだ。

雨が降る数時間前。
私は必ず頭が痛くなる。


何をするのも億劫で、
ひたすらにグズグズと
その痛みに耐えるのだ。

この痛みとは一生仲良くなれる気がしない。
大っ嫌いだ。

ジワジワと侵食してくる痛みに
「ああ、今日もやってきたのね」
なんて気分がどんよりと沈んでいく。

そんな私の気分も知らないで
どんどん痛みが増していくのも腹が立つ。

仕事中なら最悪だ。

頭痛薬の効果を期待する間に
集中力は完全に途切れ、
PC画面の文字を見ようにも
ズキズキとした痛みが
文字を理解しようとする私の脳の邪魔をする。

ああ、いやだ。


そうやって痛みと格闘すること数時間。

ポツ…ポツ……
雨が降り出した。
そこで、やっと私は安心できるのだ。

ああ、今日も正常だった、と。


頭痛薬を飲んだり、
低気圧かどうか調べたり。

それも大事だが、
なぜか私は雨音を聞くと安心する。


例えるならば、
「偏頭痛かも…?たぶんね」と
(仮)状態で放置されてたものに、
「偏頭痛だったね!おめでとう!」と
最終烙印を押されたかのような感覚だろうか?

全然おめでたくも嬉しくもないけれど。



人って、自分がどんな人間なのか
他者に判断されたい生き物だと思う。
特に日本人がそうなのかもしれないが。

占いが流行るのは、
医者に病名を伝えられて安心するのは、
自分の考えだけでは決定できない自身のことを言い当ててくれるからではないだろうか。

あくまで持論でしかないから
断定はできないけれど。

雨音はあくまで音だ。他者じゃない。
でも、自分ではない「だれか」「なにか」に
言い当てられているように感じるから、
私は安心しているのかもしれない。


明日は晴れるだろうか。
この痛みにも必ず終わりがくる。
夜が明ける頃には和らいでいますように。

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