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新卒一年目の心の中。
僕は今日の夜、文学的発見をしてしまった。
なぜ僕は夜の道ばかりでいい文章が思いつくのか。
なぜ気持ちが暗い時ばかりnoteが書けるのか。
その答えは、
落ち込んでいる時、
寂しい時、
泣きたい時、
僕の心は「暇」なのだ。
もちろんこの「暇」というのは、余裕があるとか時間があるという意味の暇ではない。
ここでいう「暇」というのは「表現の幅」や「余白」という意味に近いかもしれない。
歩いている時、僕は普段ならスマホを見たり、周りの広告を眺めたり、音楽を流し聴きしたりする。
しかし一転、負の感情が強い時は感情や表情や景色の一つ一つに配慮する「暇」がある。
急いで帰るさまを「急ぎ足で帰る」でいいところを「自分の足音に追われているように帰る」とか書いちゃったりする。
もちろん文学者はきっと「帰る」なんて凡庸な表現を使わないだろうけど、許可も必要ないし僕にだって文学者気取りをする権利くらいはある。
楽しい時は語彙力がなくなる。
「マジ」だの「えぐい」だのそんな言葉で幾千もの感情や状況が伝えられる。
それは見えてる景色が、聞こえてる景色が同じだろう、という過剰な自信からくるエゴかもしれない。
落ち込んでいる時、
寂しい時、
泣きたい時、
情景を事細かに、そして詩的に表現したくなるのは自信のなさからくる共感の喪失への恐れなのかもしれない。
誰にだって辛い時はある。
私だってトイレで泣いていたこともある。
これはこの間部長が僕に言い放った言葉だ。
僕の巧みな文学的表現で「見える化」された感情や表情や景色が、
そんな捻りもない二言で片付けられてたまるか。
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