和歌集の編者は、どのようにして歌を見つけてきたのだろうか
和歌集の編者は、どのようにして歌を見つけてきたのだろうか。
それまでの和歌集に入っていたものとか、歌合わせて読まれたものなどは発掘のしようもあるが,個人の旅の中で読んだものとか、身分の低い人の歌であるとか、そのようなものはどのようにして発掘してきたのだろうか。
万葉集にしても、一部の閉じられた世界の中だけのものではなく、東歌とか防人歌とか広く日本中にその歌の作者が散らばっているというところがすごい。
詠んだ人が東歌だから坂東,東北とか,
防人歌だから九州などと言われているわけだけど、
そのような名も知らぬ人が詠んだ歌が中央の編纂の俎上にのせられたと言う経歴が知りたい。
新古今の頃になればかなり編者の身の回りの人の歌で固められているように思うが、それにしても同じこと。それはどのようにしてストックされていたのだろうか。
いくら考えてもわからなかった。
しかし,ここに考えのヒントがあった。
「くそじじいとくそばばあの日本史」という本だ。
歴史上のじいさん,ばあさんたちへのレスペクト感満載の本がある。
「ルポライターばばあ」が歴史を作る」
「81歳で政界デビュー!!百歳すぎても政界に君臨」
「平安・鎌倉時代のアンチエイジングばばあ」
「昔の人は短命はうそ!ヤバい老人クリエーター」
それぞれ,誰を表しているかはお読みいただくとして,このように「じじい」とか「ばばあ」という言葉に込められたリスペクトはすごい。
そのなかに,曾禰好忠という歌詠みの話が出てくる。
世の人に自分の歌が広まってほしいので、サクラを使って笑われたとう話だ。
情報の拡散をするために、まずは認知されたいという気持ちが1000年前からあったということを示している。
「いつの間にか私の歌を巷で人々が口ずさんでいるよ」とある歌詠みが得意げに言ったことをうけて、そのライバルが人に金をやって披露目させたことが紹介されている。
そして,話のシメとして,好忠は金も払わずに広めてくれるようにたのんでいたそうだよ!と笑われているというのがこの話のオチになっている。
当時から、情報の拡散ということへの認識があり、それにお金を使うということは普通にあったということなのだ。
本当に良い歌なら、自然に人が口ずさみ、広まっていくだろうという考えは、理想であって、拡散は人為的に行わないといけないという認識があったものと思われる。
さて。ここで万葉集に帰ってくる。
日本の津津浦浦の、さまざまな地位の人々の歌が掲載されているこの万葉集。
当然,メモがあったわけではない。
口伝てに歌われ,広まっていたから,編者のもとに届いたのだ。
1000年前の歌詠みたちの話のように,人為的にお金を払って広めようとしたわけでもないし,そのようにしたものは残ったはずもない。
たくさんの人達がその思いに共感し,口ずさみ,やがて言霊となって,場所と時間を超えて編者に届いた。それほど,東歌や,防人の家族への思い,望郷の念は,深かったのだ。
長いこと抱いていた疑問は,おそらくこれで解けたのではないか。