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本邦キラキラネームの起源とも言われる森鷗外の長男の名前についての長年の疑問


 文豪森鷗外の長男の名前を「於菟おと」という。中学校か高校の国語の授業では、鷗外は子供たちの名前をドイツ語風に名付け、「於菟」はオットーにちなんでいる、と教わった。鷗外の経歴からすればおかしくない。しかし、小さな疑問が残ったのを憶えている。
 それは「於菟」というあまり見馴れない漢字を使っている点である。オットーの当て字はいくらでもみつかるだろう。

 この小さな疑問は、長年放置されていた。いや、忘れていた。究明するには必要性も動機も小さすぎた。
 しかし、最近、書店で目についた新書を読んでいると、以下のように「於菟」が、名前に使われている実例を発見した。『左伝』の成立に関する部分である。出典は『上海博物館蔵戦国楚竹書』の『成王為城濮之行』らしい。そして『左伝』にも、この『成王為城濮之行』と類似した説話が載っているとのことである。

闘穀於菟

 幕末生まれの鷗外が『左伝』を読み込んでいたのは、間違いない。また、この「於菟」の名前が目に触れ記憶した可能性もある、と推測してみた。
 だが、『……竹書』の「子文(「闘穀於菟とうこくおと)」、とりわけ仇名の『闘穀於菟』のネーミングはいかに中国古代のことにしても、異風に思える。この仇名の由来を知るために、『左伝』に登場する「子文」を調べてみようかとも思ったが、コスパが悪すぎる。わたしが抱えている疑問の中で、比重のもっとも軽い疑問にでしかないのである。
 取りあえず、漢字辞書で調べてみた。『左伝』由来の名前なら、なんかヒントになることぐらいは載っているかもしれない、という期待である。
そして、あっさり解決した。【虎の別名。春秋時代の楚の方言】

デジタル旺文社 漢字典

さらに、信用をあまりおいていないウィキペディアで検索してみた。

ウィキペディア「森於菟」の項

 なんのことはない。寅年生まれにちなみ、鷗外の古典知識を生かしたということか。
 小さな疑問を長年持ち続けたことが、阿呆らしい。中学か高校の国語教師の説はまったくの誤りだったのだろうか。
 たしかに鷗外は、「於菟」以外に長女以下に「茉莉まり」、「杏奴あんぬ」「るい」と名付けている。また長男「於菟」も、その子供たちに「燓須はんす」などと欧州人由来の名前をつけている。鷗外には、欧米人名を用いる命名基準があったことは、間違いないと推測する。だとすると、長男「於菟」は寅年由来、『左伝』由来に加えてドイツ語男子名との語呂合わせも重ねたのだろうか。新たな小さな疑問がわいてくるが、調べる意欲は失せている。
 だれか詳しい方がいらしたら、ご教示をお願いします。

出典図書名