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愛とは
おそらく大多数の人が一度は考えるだろうこと、愛とはなんだろうと考えてみる。
きっかけはベタであるが、この度特定のお相手と交際することになったことだ。
以前お付き合いしていた人へは、『私がこの人を救わねば』という、メサイアコンプレックスにも似た感情を抱いていたように思う。これはおそらく愛ではないだろう。
今お付き合いしている方とは、会った回数4回とまあまあお互いのこと知らないよね、という状況である。燃え上がるような恋ではない(そもそも私はあまり燃え上がらないようだ)。けれど私なりに、穏やかに愛を育んでいけるお相手ではないかと感じている。
そこで改めて、愛とはなんぞやと考えることに至ったわけだ。
あい【愛】
1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「愛を注ぐ」
2 (性愛の対象として)特定の人をいとしいと思う心。互いに相手を慕う情。恋。「愛が芽生える」
3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する愛」
4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への愛」
5 キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー
6 仏教で、主として貪愛(とんあい)のこと。自我の欲望に根ざし解脱(げだつ)を妨げるもの。
引用元:デジタル大辞泉
王道に辞書を参照してみた。
個人的に興味深いのは、キリスト教と仏教で考えが全く異なることだ。確かにキリスト教では愛を尊いものとして説くのに対し、仏教は執着を捨てよと説く。はて。愛と執着はどう違うのだろうか。
ちょっと文が正確ではないかもしれないけれど、私の大好きな本である『スロウハイツの神様』(辻村深月著)の中で、登場人物のひとりである正義(と書いてまさよしと読む)がこう言っていた。
「愛は執着だよ。きちんと、相手に執着することだ」
私はこの台詞を読んだとき、はっとした。対象を特別視すること、それはもう執着になるのかもしれない、と。
しゅう‐ちゃく〔シフ‐〕【執着】
[名](スル)《「しゅうじゃく」とも》一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。「金に執着する」「執着心」
引用元:デジタル大辞泉
文面だけ見ると、本人にはコントロールできない心のこだわりであるだけで、さして悪いものではないような印象を受ける。
離れようと思えば離れられる、その程度のものは愛ではないと、正義はそう言いたいのだろうか。少なくとも私はそう解釈した。
個人的に、執着はあまりよくない感情だと思っている。特に、相手が応えない場合や相手を信じられない場合の執着は容易に妄執となり得り、呪いにまでなることがあるから。
だが、相手もまた執着を返す場合はどうだろう。この人でなければ! という感覚は、『生涯の伴侶』を唯一選ぶ上で大切なものではないだろうか。互いが同じような比重の執着を持っているならば、それは『愛』だと言い換えてもいいのかもしれない。
私もお相手も、まだ執着と言えるほどの感情は育っていない。それもそれで、緩く穏やかで平和な関係だと思う。今のところ、誠意を信用できる相手だと思っているし、楽しいなあ好きだなあとも思える。
愛がなんなのか、きっと答えは見つからない。きっと一生考え続けて、その度に答えだと思うことは違うんだろうから、これからも考え続けて、その度に新しい答えを見つけていこうと思う。
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