ひとはなぜ戦争をするのか
A.アインシュタイン S.フロイト 2016 講談社学術文庫
ひとはなぜ戦争をするのか。
この問いを発したのはアインシュタイン。
その問いに応えるのはフロイト。
往復書簡は、国際連盟のプロジェクトであり、アインシュタインへの依頼だった。
誰でも好きな人を選び、「いまの文明でもっとも大切と思える問いについて意見を交換」(p.9)するというプロジェクトだ。
時は、1932年。
アインシュタインの手紙はポツダムで、フロイトの手紙はウィーンで書かれた。
なんとも豪華な組み合わせの往復書簡だ。2人とも、世紀を代表する知性である。
アインシュタインの問いかけが結構、意地悪なのだ。
彼はきちんと私見を述べながら、問いかけを発しているため、ほとんど解答を自分で述べているようにも見える。
フロイトに残された問いは、したがって、一つだけに絞られる。
人間が憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか。
フロイトの返事の書き出しは、だからとても、書きにくそうに書いているように見える。
謙遜という自己弁護を駆使した文章の書き方は、デカルトにも見えるような西欧的なマナーではあるが、微笑ましい気がした。
アインシュタイン自身が答えているじゃないかと支持的かつ肯定的な反応を示した後、フロイトは徐々に生の欲動と死の欲動を援用した論を展開していく。
なぜ平和主義者は戦争に強い憤りを覚えるのか?と問いを設定していくところは、さすがである。
すべての人間が平和主義になるためにはどれだけの時間がかかるかわからないが、フロイトは希望をもって手紙をしめくくる。
この往復書簡の前段階にあるものがカントの「永遠平和のために」、この後にくるものがヤスパースの「われわれの戦争責任について」ではなかろうか。
1932年。フロイトが共同体への一体感を述べるとき、それがナチスの掲げていた価値観と重なっていることを教えてくれるものが、シェファー「アスペルガー医師とナチス」である。
こう位置づけて読んでいくと、この短い往復書簡がずっしりと、うんざりと、のしかかってくる。
フロイトが持っている時代性を、「アスペルガー医師とナチス」を読んだ後だからこそ、強く感じさせられた。
と同時に、二人の知性の素晴らしく先見的な言説にも舌を巻いた。
たとえば、アインシュタインは「『教養のない人』よりも『知識人』と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。『知識人』こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。」(p.16)と指摘する。
このくだりは、オウム真理教を筆頭に、高学歴の人がたやすくカルトに与する事例が連想された。
学生運動のような政治的、社会的な運動も例外ではない。現在のSNSを見ていても、知識人だからといって、カルトやオカルトとは無縁でない例の枚挙にいとまがない。
また、この続きの「彼らは現実を、生の現実を、自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです」(pp.16-17)のという理解は、SNSこそが世界を理解する窓口であると勘違いしてしまったが故の誹謗中傷を繰り広げる人たちや、フェイクニュースの確信や拡散する人たちの説明にそのまま用いることができると思う。
フロイトのほうは文化の発展が人間の心の在り方に変化を引き起こし、体にも変化を起こすと理論展開していく。
その結果「ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなり、本能的な欲望の度合いが弱まって」(p.53)、「攻撃本能を内に向かっていく」(p.54)ことが起きると指摘する。
現代から見て的確な予言であったように思う。現代の日本の出生率の低さと自殺率の高さを、経済的な問題は別にして、フロイトの言葉を用いながら説明しようと思えばできるのだと思った。
本文は短いものである。翻訳は浅見昇吾。
手紙ということで専門用語をふりまくような難解な文章ではなかったのだろうと推察するが、とても読みやすくて違和感のない日本語でよかった。
そこしっかりとした2つの解説が加わっている。
1つは養老孟司が、もう一つは斎藤環。解剖学者と精神科医という二つの立場から、それぞれに現代の立場からフロイトの回答を補強しているところが面白い。
戦争はいつか飼い慣らし、飼い殺すことができるかもしれない、希望。
フロイトの答えは、啓蒙であり文明化。これが、理性が腐食することが事例として提示される前のキリスト教文化圏の最高の回答だったことは、間違いないかと思う。
それは最大の希望だった。
文化はまだ希望だと思いたい。
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