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【狂気】異質なホラー映画『みなに幸あれ』(古川琴音主演)は古い因習に似せた「社会の異様さ」を描く

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古川琴音主演映画『みなに幸あれ』は、異質なホラー映画だった。ある種「シュールな怖さ」を描く物語は、我々が生きる世界の異様さを映し出してもいる

なかなかハチャメチャな物語だった。面白い作品だと思うし、個人的な満足度は高いのだが、作品全体に対する評価は「とにかくハチャメチャだった」に尽きると言っていい。「ムチャクチャ怖い」というわけではなく、描かれている世界観がぶっ飛んでいるという感じだった。

ただ後でも触れるが、本作は恐らく、私たちが生きている世界全体をある種”風刺”するような内容だと考えていいと思う。本作の設定は実に奇妙であり、シュールささえ感じさせるような異様さを放っているのだが、「でもそれって、私たちが生きている世界そのものだよね」という提示のされ方になっているのである。このように、色々深堀り出来る設定・展開だったことも、とても良い点だと思う。

それでは、さっそく内容の紹介から始めるが、1つだけ先に書いておきたいことがある。本作においては、登場人物に「名前」はない。公式HPでは、古川琴音の役は「孫」、松大航也の役は「幼馴染」という表記になっている。他の人物も、「おじいちゃん、おばあちゃん」「お父さん、お母さん」のように「関係性の名前」のみで呼ばれているのだ。はっきりした考察が出来ているわけではないが、記名を排した意図はあるはずだし、それが何であれ、作品全体の雰囲気にはとても合っていると感じた。

まずは内容紹介

「孫」の電話が鳴ったのは、荷造りの最中だった。両親からだ。祖父母の家で合流する予定になっているのだが、両親と弟の到着が遅れるという連絡だった。一人暮らしをして東京の看護学校に通っている「孫」は、1人で祖父母の家に行かなければならなくなってしまい、少し気が重い。というのも、子どもの頃に祖父母の家で、奇妙な物音を聞くなど嫌な経験をしたことがあるからだ。

しかし両親に押し切られる、「孫」はしばし1人で祖父母の家に泊まる覚悟をした。出迎えてくれた祖父母の印象はいぜんと変わらないように思えたが、しばらくすると奇妙な振る舞いが目に付くようになる。天井に視線を向けたまま放心状態で立ち尽くしていたり、「あなたのことは目に入れても痛くない」と言いながら「孫」の手を取り、その指を自身の目の中に突っ込もうとしたりするのだ。「孫」は祖父母の様子が明らかにおかしいことに気づいているが、家族が来るまでの辛抱だと、とにかくやり過ごすことだけを考えている。

しんな滞在中、「孫」はばったり「幼馴染」と再会した。いじめられている少年を助けようと駆け寄ったその時、たまたま「幼馴染」がトラックで通りかかったのだ。自転車を田んぼに落とされた少年を車で学校に送り届けるついでに「孫」もトラックに乗せてもらい、そこで久々に「幼馴染」と会話を交わした。しかし、帰り際に「しばらくいるから、また遊んでよ」と声を掛けたものの、なんとも煮えきらない返事が返ってくる。

さて、違和感に耐えつつしばらく1人で祖父母の家にいた「孫」は、ようやく、昼には両親と弟が到着するという日を迎えた。しかしその日の朝、「孫」は「違和感」なんて言葉では収まりきらない「決定的にヤバい状況」を目撃してしまう。「孫」は恐怖で顔が引き攣る……。

様々なことが謎めいたまま、物語は閉じる

正直なところ、本作の全体像を捉えることはとても難しい。というのも本作では、「何がどうなっているのか」という「観客向けの説明」が存在しないからだ。もちろん、観ていれば何となく状況や仕組みは理解できる。しかし本作の場合、ミステリ作品で言うところの「伏線」が冒頭から色々と提示されながら、それらがほぼ回収されないまま終わるのだ。「これは一体何を示唆している場面なんだろう?」と感じさせる状況に後から何らかの説明が付けば、それは「伏線回収」みたいな扱いになるだろうが、本作の場合、それに類するような描写は無い。そのため、「気になるなぁ」という部分がかなり残ったままになっているのである。

ただ、それが悪かったのかというと、決してそのような印象にはならなかった。恐らく、本作が「ホラー作品」だからだろう。最初からミステリ的な作品でないことは分かっていたので、「伏線」っぽく見えるものが回収されなくても「まあそんなものか」と感じられたのだろうと思う。あるいはもっとシンプルに、「説明せずに放ったらかす方が、怖さが増す」とも言えるだろう。「ホラー作品」なのだから、それで良いんじゃないかと思う。

また、「『理解できない』と感じてもらう意図があった」という解釈も可能だろう。本作は、「ある村で起こっている特異な出来事」を描いているように見せつつ、実は「私たちが生きている社会そのもの」を切り取ろうとしているのだと私は受け取った。そして、「作中世界に通底する『理屈』が理解できない」という点はそのまま、「私たちが生きる世界に通底する『理屈』が理解できない」ということに対応しているように思えるのだ。つまり、このような構成にしたことで、「そういえば、自分たちが生きている世界のことも、正直良く分かってないよなぁ」という気分にさせようという意図があるのではないかと感じたのだ。

しかし私の解釈が正しいとして、1つ気になる点がある。それは、「作中世界ではどうも、『孫』以外の人物は、『孫』が理解できていない『理屈』を知っているらしい」ということだ。作中で「孫」は何度か、「知らないの?」「まだ教えてもらってないんだ」みたいに言われていた。このことを踏まえれば、作中世界では恐らく「各家庭がその『理屈』を子どもに教えている」という設定なのだと思う。しかし何故か「孫」だけはそれを知らない(あるいは、「教わったが忘れている」「教わったが受け入れたくないため記憶から消している」)というわけだ。

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