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【評価】のん(能年玲奈)の映画『Ribbon』が描く、コロナ禍において「生きる糧」が芸術であることの葛藤
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映画『Ribbon』は、「コロナ禍において芸術を志すこと」の葛藤を通じて、「生きる糧」について考えさせる
私は、「芸術」には縁遠い人間ですが、興味を持って美術展に足を運んだり、デザインに関わる友人がいたりと、少しだけそういう世界を垣間見れる機会があります。この映画を観る直前に、芸術系の専門学校に通っている友人から卒展に誘われたこともあり、なおさら映画で描かれる人たちにより強く思いを馳せてしまいました。
主人公がこんな風に言う場面があります。
世の中の人みんな、芸術なんかなくたって生きていけるんだって。
異常だよね。
「芸術を愛でない者は人間ではない」とでも言いたげなこのセリフは、視野狭窄に陥っているとも捉えられますが、しかし一方で、「『これがなければ生きていけない』と感じるものを誰もが持っている」という事実を浮き彫りにもするでしょう。コロナ禍は、まさにその事実を如実に浮かび上がらせたと私は感じています。
「生きていくのに必要なもの」は人によって違う
今でも印象的に覚えている話があります。かつて同じ職場で働いていた女性は、いわゆる「腐女子」で、ボーイズラブが大好きでした。とにかく日々、ボーイズラブの漫画を読み耽っている女性です。しかし彼女は、「ボーイズラブがこの世から消えても、きっと私は生きていける」と言っていました。その言葉はとても意外なものだったので、さらに話を聞くと、「『自分の心がぐわんと動く瞬間』があれば生き延びられる」というのです。例えば彼女がバスに乗っている時、外を眺めていると、恐ろしく美しい、自分の内側に突き刺さるような光景に出会えることがあるといいます。そして、ボーイズラブが残っていたとしても、そういう「自分の心がぐわんと動く瞬間」がまったくゼロになってしまったら、きっと生きてはいられないだろう、と言っていました。
映画『Ribbon』の主人公・浅川いつかにとっての「芸術」のような、「それ無しでは生きていけない」と感じるものは、誰しもが持っているでしょう。「推し活」や「食」など分かりやすいものから、なかなか人には理解してもらえないだろうものまで、様々なものが挙がるでしょうが、とにかく、「『人間の身体機能を維持するのに必要不可欠』とは言えないが、『人間の魂を生き延びさせるのに絶対に欠かせない』と感じるもの」は、きっと皆持っているはずです。
私の場合は、「『私の頭の中からは到底生まれ出ないような何か』に触れること」がそれに当たると言えるでしょう。例えば、先程挙げた「Chim↑Pom展」からは、久々に頭をガツンと殴られたような途方もない衝撃を受けたことを覚えています。賛否両論渦巻くアーティスト集団の作品ではありますが、「アートの手法を使って、鮮やかに社会批評をやってのける」というスタンスには、とても驚かされました。また、最近は映画をよく観ていますが、なるべく事前情報を調べないまま映画館で観るようにしているのも、「思ってもみなかったものに出会いたい」という欲求ゆえです。
さてこのように、恐らく誰もが「生きていくのに必要なもの」を持っていると思うのですが、コロナ禍はそのことに対する価値観を大きく揺さぶったと私は感じています。とにかく社会のあらゆる場面で、「身体機能の維持を優先しましょう」という措置が取られたからです。身体が傷ついたり悪化したりする様は見て分かりますが、魂が壊れていく様は目に見えません。だから、「魂を生き延びさせる行為」はことごとく「不要不急」という枠組みの中に入れられることになりましたす。
もちろん、「身体機能の維持優先」というスタンスは間違いなく正しかったと思います。決してそのことを批判したいわけではありません。ただ一方で、「魂を生き延びさせること」があまりにも軽んじられているように思えてしまう風潮には強く違和感を抱かされました。「頑張っている人がいる」「苦しんでいる人がいる」「みんな我慢している」みたいな言葉で、さも当然であるかのように「魂を生き延びさせる行為」が蔑ろにされてしまう状況に嫌悪感を抱いてしまったのです。
さらに、「『魂を生き延びさせる行為』は千差万別だ」という想像力も欠けているように私には感じられました。もちろん、公共の場を個人が専有したり、意図して他人を傷つけたりする行為はどんな理由があれ制約されるべきです。しかしコロナ禍においては、「それぐらい、目くじら立てずに許してやれよ」と感じる状況を多く目にしたようにも思います。
私はそういう「想像力の欠如した世界」に対して、大きな失望を感じていました。
今は少しずつ、人々の行動を可能な限り制約せずにウイルスとどうにか折り合いをつけていこうというフェーズに入っている気がします。まだ先は長いかもしれませんが、少しずつ社会は、コロナ前を取り戻していくでしょう。
そんな中、「生きていくのに必要なもの」を制約された人たちはきっと、自分の何かを少しずつ欠損させながら今を生きているはずです。そういう人たちが社会にたくさんいて、ポストコロナの時代を生きていくことになります。
であれば、「自分は一体何を欠損したのか」を的確に把握しておくことはとても重要ではないかと思うのです。
こんなにも誰かに見てほしかったんだなって実感した。
卒展の中止を告げられた浅川いつかが、残念そうにそう語る場面があります。卒展の中止はとても悲しい事態ですが、中止が決定した以上、「自分はこんな感覚を抱いていたんだ」と気づくきっかけになったと、前向きに捉える他ないでしょう。コロナ禍で、「自分が一体何を大事にしているのか」について改めて考えさせられたという方も多いでしょうし、まさにそれが映画『Ribbon』の主題の1つと言っていいと思います。
「他人の価値観」を「自分の判断基準」で裁くんじゃない
映画を観ながら感じたことがもう1つあります。それは、「『他人の価値観』を『自分の判断基準』で裁くんじゃない」ということです。
映画の中で、私が最もイライラさせられ、だからこそとても印象に残ったシーンがあります。主人公・いつかの部屋を片付けるために母親がやってきた際、母親がいつかの絵を勝手に捨てたのです。ゴミ捨て場から絵を救い出したいつかは母親に、「どうして謝らないの?」と詰め寄るのですが、それに対する返答として母親が言い放った言葉には驚愕させられました。
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