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【生きる】しんどい人生を宿命付けられた子どもはどう生きるべき?格差社会・いじめ・恋愛を詰め込んだ映画:『少年の君』

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受験戦争、格差社会、いじめなどの社会問題を詰め込み、「残酷なボーイ・ミーツ・ガール」を描く衝撃作

凄い映画でした。元々観る予定のなかった映画ですが、本当に観て良かったと思いました。

普段私は、「作品の評判を知った上で映画を観る」ことをしません。基本的には映画館でしか映画を観ないと決めていて、「公開前のざっくりした内容紹介」か「映画館で流れる予告」ぐらいから観るか観ないかを決めています。そんなわけで、「映画の評判」を調べることも普段していません。

ただこの『少年の君』は、そんな私のところにまで評判が届くぐらい大絶賛されていたのですた。まったく知らなかった映画が称賛されていることが気になって、観てみることにしたのですが、個人的にはとてもとても素晴らしい映画だと感じました。

物語の大枠は「ボーイ・ミーツ・ガール」と言っていいでしょう。つまりそこには、ある種の「恋愛的な関係性」が存在しているというわけです。しかし一方で、「ボーイ・ミーツ・ガール」と聞いてイメージするような作品ではないと思います。映画には、現代中国の様々な社会問題が詰め込まれ、その苦しさを残念ながら引き受けざるを得ない少年少女が、それでもなんとか踏ん張っていく姿が描かれるからです。そういう辛く厳しい境遇の中で、出会うはずのなかった2人の人生が交わり、「恋」と呼んでいいのか悩む展開が描かれていきます。

この映画で描かれる社会問題は、日本も無関係とは言えないでしょう。色んな意味で規模の大きな中国と比較すると程度の差はあるかもしれませんが、主人公2人のような苦しい環境に置かれている子どもたちは、日本にもたくさんいるはずです。

この映画を観て何を感じるかはもちろん人それぞれ違うでしょうが、「こんな時代だからしょうがない」みたいな感覚だけは持ってほしくないと感じました。「こんな時代」にしているのは、私自身を含めた大人ですう。自分に何ができるのか考えることはとても難しいですが、せめてもう少しまともな世界にできるようにみんなが少しずつ頑張るべきだと感じました。

さて、普段映画や本の記事を書く際は、「自分なりのネタバレ基準」を守るようにしています。「何を以ってネタバレと考えるか」は人それぞれ違うので、私の普段の記事も「ネタバレだ」と感じる方もいるでしょうが、私なりの基準で普段はネタバレをしていないつもりです。

ただこの記事では、その「自分なりのネタバレ基準」も解放します。なるべく作品そのものに触れたいからです。映画の後半、ある場面から極端に物語が転調して以降の展開についてはボカして書きますが、そこに至るまでの内容にはかなり触れるつもりです。

ですので、「これから映画を観ようと思っているが、あまり内容を知りたくない」という方は、ここで読むのを止めていただくのがいいかと思います。

映画の冒頭で繰り返される『was』と『used to be』の違い

冒頭からまず非常に印象的でした。映画のラストが、この冒頭シーンの繰り返しとなるので、さらに印象が強くなります。

映画全体は、高校生の少女チェン・ニェンと、青年シャオベイの物語なのですが、冒頭では、大人になり、恐らく英語教師の職に就いたのだろうチェン・ニェンが登場します。そして冒頭のシーンは、彼女が授業の中で子どもたちに、「『was』と『used to be』の違いが分かる人?」と質問している場面です。子どもの1人が手を挙げ、「『was』は過去を表します」と答えるのですが、チェン・ニェンは「どちらも過去を表す言葉ですよ」と返します。

それから彼女は、「『used to be』の方は、『失った』という意味合いが強くなります」と説明した上で、子どもたちに、以下の3つの文章を復唱させるのです。

This was a playground.(ここは昔遊び場だった)
This used to be a playground.(ここは昔遊び場だったのに)
This is a playground.(ここは遊び場です)

子どもたちがこの3つの文章を繰り返すのに合わせて、3つの日本語字幕が切り替わっていきますが、その過程で、「遊び場」という日本語の上の表記(日本語の場合の「ふりがな」のようなもの)が「playground」から「paradise」に変わる、という趣向がなされます。日本人は「paradise(パラダイス)」と聞くと「楽園」をイメージすると思いますが、恐らく英語には「遊び場」のようなニュアンスもあるのでしょう。

さて、冒頭で描かれるのはたったこれだけです。チェン・ニェンがどのような過去を持っているのかまだ知らない観客には上手く受け取ることができないでしょう。しかし最後に再びこの場面が繰り返されることで、冒頭シーンでやりたかったことが見えてきます。

つまり、「子どもたちに英語を教える」という、特段なんでもなさそうな、「チェン・ニェンは将来こうなりました」という紹介に過ぎない映像に、「ここ(私がいた場所)は昔『楽園』だったのに」という彼女自身の実感を重ねているというわけです。

そしてこのことは、大きな皮肉として観客に伝わるだろうと思います。何故なら、チェン・ニェンがかつていた場所は、とても「楽園」と呼べるような場所ではなかったからです。むしろ「楽園」とは程遠い環境だったと言っていいでしょう。

しかし彼女は、客観的に見たら「酷い」としか言いようがないそんな環境を「楽園」と呼んでしまいたくなるぐらい、その後さらに凄まじい状況に置かれます。チェン・ニェンの「ここ(私がいた場所)は昔『楽園』だったのに」という感覚は、彼女が過ごした壮絶な日々に対する実感を表現しているというわけです。

さらにここには、「英語教師として穏やかで安定した生活を送れている現在よりも、昔の方が『楽園』だった」という感覚も込められているかもしれません。そうだとすれば、それはまさに、この映画の核でもある「ボーイ・ミーツ・ガール」的な部分に対するチェン・ニェンの実感と言っていいでしょう。

冒頭シーンを観ている段階では、当然このようなことは理解できません。しかし、チェン・ニェンの凄まじい過去を知った後、改めてラストシーンでこの場面が繰り返されると、彼女が抱いているかもしれない複雑な感情を読み取ることができるというわけです。

本当に、映像的にはなんてことのないシーンなのですが、直接的な説明をせずにチェン・ニェンの実感を如実に伝える見事な場面だったと感じました。

チェン・ニェンはいじめのターゲットにされる

冒頭シーンが終わると、舞台は2011年、中国における「大学入学共通テスト」である「高考」まであと60日という時点に遡ります。高校3年生のチェン・ニェンは、受験勉強で殺伐とする進学校で、陰を潜めながら受験・卒業までの日々をやり過ごそうと考えていました。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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