【感涙】映画『彼女が好きなものは』の衝撃。偏見・無関心・他人事の世界から”脱する勇気”をどう持つか
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映画『彼女が好きなものは』はとんでもなく素晴しい作品だった。作品の「核となるテーマ」に触れずに感想を書く
とんでもなく素晴しい映画です。涙腺がぶっ壊れたのかと思うほど、号泣させられました。
この映画を観ることに決めた自分の判断を褒めてあげたいと思います。普通ならまず観ないタイプの映画だからです。メインビジュアルや予告の雰囲気から、「ジャニーズが出てくる学園モノの映画」だと思っていました。別にジャニーズが悪いと言いたいわけではありません。ただ、ジャニーズが出る作品はどうしても「大多数向け」という感じになるだろうし、私の場合、そういう作品をあまり面白いと感じられないことが多いのです。というかそもそも、「神尾楓珠をジャニーズの人だと勘違いしていた」というだけの話なんですが。
私が『彼女が好きなものは』を観ようと考えたのは、山田杏奈が出ていたからだと思います。別に彼女のファンというわけではないのですが、その少し前に映画『ひらいて』を観ており、「山田杏奈の存在が作品を成立させている」と感じたことがありました。その記憶があったからこそ、『彼女が好きなものは』も観てみようと思ったはずです。
とにかく、私としては「普段ならまず観ないだろう映画」という印象でしたし、だからこそ、観る決断をして本当に良かったと思っています。
「学園モノ」という印象は決して間違っているわけではなく、主人公たちが温泉施設へとダブルデートに行く辺りまでは、よくありがちな「学園モノ」のストーリーという風に進んでいきます。しかしそこから物語は急転、まったく違った雰囲気をまとって展開されていくことになるというわけです。
それでは物語の中身に触れる前に、この映画では一体何が描かれていて、どんな点に私がグッと来たのかという話をしていきたいと思います。
「ただし摩擦はゼロとする」という欺瞞
映画の冒頭は、主人公・安藤純のこんな独白から始まります。
「ただし摩擦はゼロとする」は、学生時代の物理の授業でよく出てくるフレーズです。聞き覚えがあるという方もいるでしょう。ざっくり説明すると、「問題を解く際に、『地面との摩擦』を考慮すると複雑になるので、『摩擦はゼロ』として考えること」という意味の注意書きです。学校のテストで出頭するのに相応しいレベルの問題にするために、「摩擦は存在しないものとして考えましょう」というお約束が用意されているというわけです。
安藤はさらにこんな風に続けます。
「男だから…」「女だから…」「子どもだから…」「美人だから…」「障害者だから…」。世の中では、このような言葉が当たり前に使われています。そのどれもが、その人の人物像を構成する「一要素」にすぎません。それなのに、「男である」というだけで、「こうするのが当然」「そんなことするなんておかしい」と受け取られてしまうこともあるはずです。あたかも「1つの要素だけを切り取って人物を描像できる」と考えているかのような単純な思考の言説がとても多いと感じてします。
安藤は、まさにこのような「単純化」を、「ただし摩擦はゼロとする」という言葉で表現しているのです。
どうして彼はそんな感覚を抱いているのでしょうか。それは彼自身が、「単純化」によっては捉えきれない存在として生きているからです。そして彼は、その状態に恐ろしいほどの苦痛を感じています。
彼が、もう1人の主人公である三浦紗枝にそんな風に伝える場面があります。「分かった風にしたくないんだ」とも言っていました。どちらの言葉にも、もの凄く共感できてしまいます。
以前、「思考力や言語化力は非常に高いけれど、将棋はまったくやったことのない初心者」が将棋を学んでいる過程における感想で、「盤上に駒が多いと考えることが増えすぎるから、駒をどんどん減らしたいという気分になる」と語っていたことを思い出しました。将棋は単なる娯楽なので好きに指したらいいと思いますが、同じようなスタンスを日常や社会を捉えるやり方に組み込んでしまうのは良くないと感じます。どんな事象にも、関わっている人や置かれた状況によって異なる「固有の何か」があるはずです。そしてそれは、「世界を簡単にする」ことによってあっさり失われてしまいます。「単純化」が有益な状況ももちろんありますが、決して多くはないと私は思っていますし、日常や社会を捉える際には特に適切ではないと私は感じているのです。
「解像度」という言葉で、主人公・安藤純を捉える
私は普段から「解像度」という言葉を使います。物事を単純化して捉えれば「解像度が低い」、複雑なものを複雑なまま捉えれば「解像度が高い」というわけです。私は、「言葉の解像度」「思考の解像度」「視野の解像度」などのように「解像度」という言葉を使うのですが、安藤純が言う「ただし摩擦はゼロとする」に関わる状況は、「解像度」という観点から捉えられると考えています。
「ただし摩擦はゼロとする」という世界に違和感を覚えない人は、「解像度が低い」と言っていいでしょう。「うちの会社にパワハラなんてありません」みたいなことを平然と言う人がいますが、まさにそれは「自分の周りに存在する『摩擦』を存在しないことにしている」という態度に思えます。「摩擦」に気づいていて無視しているのか、あるいはそもそも気づいていないのか分かりませんが、とにかくそういう「解像度が低い人」は世の中にたくさんいて、私はそういう人に対してとてもイライラしてしまうのです。
安藤純は、解像度がとても高い人だと言っていいでしょう。私はそういう人がとても好きです。というか、そういう人にしか興味が持てません。
「解像度が高い人」は、「解像度が低い人」には捉えられない「摩擦」が見えてしまいます。そういう人は大体、「見たくないもの」まで見えてしまうでしょう。そしてだからこそ、どんどんと自分で自分を追い詰め、非常に苦しい状況に陥ってしまうことになるのです。
また、「解像度が高い人」は、些細な言動から相手の気持ちが分かってしまいます。もちろん「勘違い」という可能性もあるでしょう。ただ、自分としてはそんな風に感じてしまうのだからどうしようもありません。そして、相手の気持ちを分かった気になれてしまうが故に、他人に踏み込むことが怖くなります。近づけば近づくほど「見たくないもの」が見えてしまうことが分かっているし、その結果、相手のことを嫌いになってしまい得るからです。
そして、そんな自分のことがどんどん嫌になっていきます。
自分で自分のことを嫌いになっていくのは、とてもつらいことです。安藤も、そんな辛さの中にずっと押し込められてしまっていました。誰にも言えない秘密を抱えていたからです。「同志」であれば分かり合えるけれども、「同志」と関わりを持つことはそう簡単なことではありません。そして、「同志」とは全然違う、「ただし摩擦はゼロとする」の世界を当たり前のように生きる者たちと無理やり歩調を合わせながら、どうにか日々を生き抜いているというのが、安藤の置かれた状況です。
この映画で描かれる安藤の「秘密」と同じ悩みを抱えていなければ共感できない、なんてことはないでしょう。誰だって、「他人に打ち明けるのが難しい」と感じる「秘密」を持ち得るはずだからです。また、私はこれまでに、「外から見ただけでは想像できないような悩み」を抱えている人たちの話を色々と聞いたことがあります。だから、「日常を楽しそうに生きているからといって、『秘密』を抱えていないことにはならない」とも理解しているつもりです。
そんなわけでこの物語は、「核となるテーマ」に自分が関係するかどうかに拘わらず、誰しもが当事者となり得る作品だと私は感じました。
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