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【不安】環境活動家グレタを追う映画。「たったひとりのストライキ」から国連スピーチまでの奮闘と激変:映画『グレタ ひとりぼっちの挑戦』

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環境活動家グレタ・トゥーンベリの印象が、映画『グレタ ひとりぼっちの挑戦』を観て大きく変わった

私はグレタのことを「怒りの人」なのだとずっと思っていた

その存在を知った時から、私はグレタ・トゥーンベリのことを「凄い人だ」と思っていた。しかしその一方で、「少し怖い」とも感じていたのだ。その理由は、彼女のことを「怒りの人」だと捉えていたからである。

環境活動家グレタについて思い浮かべる時、真っ先にイメージされるのは「How dare you(よくもそんなことを)」と険しい表情で口にしている場面だ。そしてその印象が強いために、私はグレタのことを、「気候変動に対して何の行動も起こそうとしない社会や政府に『怒り』を感じて立ち上がった人」というイメージで捉えていた。これが、私が抱いていた「怒りの人」という印象の中心にある。

しかしこの映画を観て、それが誤りだと気づいた。グレタは「不安の人」だったのだ。そして、そのことに私は少し安心した。

私がグレタに「少し怖い」という印象を抱いていたのは、「正義感から怒っている」と捉えていたからだ。つまり、グレタに対する「怒りの人」というイメージは、「正義の人」とイコールだったのである。

そして私は、「正義の人」を怖いと感じてしまうことが多い。

誤解しないでほしいが、私は「正義のために闘う人」のことを純粋に凄いと感じるし、尊敬もしている。グレタのこともずっと「凄い人だ」と感じていた。しかし同時に、「正義の人」に対しては、「どうしてこの人は『正義』のためにそこまで自分を犠牲に出来てしまうのだろう」とも感じてしまうのだ。これは私の勝手な捉え方であり、闘っている本人は「何かを犠牲にしている」なんていう意識を持っていないかもしれない。しかし私は、「『正義』のために無理をしている」とどうしても感じてしまうし、「なんでそんなことが出来るのだろう」という、尊敬半分、怖さ半分という感覚になってしまう。「畏敬」という表現が最も近いだろうか。

もちろん、別に理由があろうがなかろうが「正義のために闘う」という行為は素晴らしいし、どんどん頑張ってほしい。「正義のために闘う人」を否定したり貶めたりする意図は一切ない。ただ、私個人の勝手な感覚として、「『正義』のための行動に、何か背景があると納得感を得やすい」とも思っている。「東日本大震災の被災者が反原発の運動を行う」などは分かりやすい例だろう。繰り返すが、別に私は「東日本大震災の被災者でなければ、反原発の運動をすべきではない」などと主張したいわけではまったくない。ただ、「正義のために闘う理由」が分かりやすく存在する方が、個人的に納得感を覚えやすい、というだけの話だ。

グレタに対しても当初は、「無条件に『正義』のために闘う人」というイメージを抱いていて、それが「少し怖い」という私の印象に繋がっていたのである。

しかし映画を見て、そうではないということが分かった。彼女には、切実な理由があったのだ。

学校で、ある映画を観た。飢餓に苦しむホッキョクグマや洪水、干ばつ、ハリケーンなどの問題が扱われていた。
すぐに行動を変えるべきだと科学者は言った。
それで私は塞ぎ込んでしまった。不安が押し寄せてきた。食べることを止め、餓死しそうになった。
それが何年も続いた。

彼女にとって「世界の気候変動」は、自分の精神を圧迫するほどの切実な問題だったのである。

それはこんな風にイメージできるかもしれない。自分の家の隣に、今にも倒壊しそうなビルが建っていることを想像してほしい。ちょっと強風が吹くだけで建物全体が揺れ、日常的に瓦礫のようなものが降ってくる。建築の専門家も、「一刻も早く解体しなければ何が起こるか分からない」と警鐘を鳴らしている。そんな状況をイメージすればグレタの不安を理解しやすいのではないかと思う。

もしそんなビルの隣で生活をしていたら、「塞ぎ込んでしまった。不安が押し寄せてきた。食べることを止め、餓死しそうになった。」という感覚に陥るのも当然だろう。彼女にとって「世界の気候変動」はそのような存在だったというわけだ。そしてそんな「不安」から、彼女は声を上げる決断をしたのである。

幼い頃からグレタは、家中の電気を消し、コンセントを抜いていたという。両親には、「エネルギーを節約するためだ」とはっきり語っていたそうだ。両親はそんなグレタに対して、「そんなことをしなくても問題はない」「きちんと対策が取られているから心配はいらない」と説明していた。

しかしむしろ、そのことが彼女の「不安」を増大させてしまう。

そしてそんな言葉に、恐怖を覚えました。状況が改善していると思い込んでいるんです。

グレタからすれば、「両親が今にも崩れそうなビルの隣で、何の心配も抱かずに平然と生活している」ように見えたのだろうし、そのこと自体に「恐怖」を覚えたのだと思う。

彼女の中には、このような「不安」「恐怖」が幼い頃から渦巻いていた。これこそが、彼女の行動原理の「核」というわけだ。

これまで私は、「彼女の行動原理の『核』」が何なのか分からずにいたのだが、映画の冒頭でグレタが抱いていた「不安」が明らかにされることもあり、すぐに印象が変化した。そして、その変化のお陰で、それ以降のグレタの言動も、迷いなくスッと理解できるようになったのである。

注目を集めるようになってからも、「グレタが『届いてほしい』と願う主張」はブレない

こういうことを言うべきではないと思ってはいるのだが、どうしても「正義の人」に対しては、「『正義』を貫くこと自体に酔っているのかもしれない」という見方をゼロにすることが難しい。つまりそれは、「何らかの形で『称賛』されること」が「『正義』の目的」になっているのかもしれない、という邪推でもある。そんな風に考えてしまう自分に嫌悪感を抱くこともあるが、やはりその感覚は決してゼロにはならない。別にそれが動機なのだとしても、結果的に「正義」が実現するのなら何の問題もないとは思っている。ただ私の中に、「なんかなぁ……」というモヤモヤした感覚が残ってしまうのもまた事実だ。

しかし、グレタが「不安の人」なのだと理解できたことで、上述のような感覚を一切捨て去ることができた。グレタの言動も、その捉え方を補強する。

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