【家族】ゲイの男性が、拘置所を出所した20歳の男性と養子縁組し親子関係になるドキュメンタリー:映画『二十歳の息子』
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「ゲイの男性」を主人公にしながら、「LGBTQ」「マイノリティ」といった要素が前面に押し出されない、ちょっと変わったドキュメンタリー映画『二十歳の息子』
想像していたよりもずっと、好きなタイプの映画だった。しかし、かなり変わった作品である。
冒頭からしばらくの間、何が描かれようとしているのかさっぱり理解できなかった
私は普段から、これから観ようと思っている映画について情報も評価も特に調べないことにしている。なので、私がこの映画を観る前に知っていた情報は、『二十歳の息子』というタイトルと、ポスターなどに書かれていた「ゲイの私が、父親になった。」というフレーズだけ。そしてそれらから漠然と、「カミングアウト」が描かれる映画なのかなと想像していた。
その予想は、大外れだったと言っていいだろう。まさに『二十歳の息子』というタイトルそのままの映画だったのである。
私は今回、記事タイトルで既にどんな内容なのかを書いてしまっているので、この記事を読んで観ようと思ってくれた人は無理だが、私と同じように、内容をまったく知らない状態で観に行くのも面白いだろう。とにかく冒頭から、ほぼなんの説明もないまま主人公となる男性が映し出され、そのまま展開していくのだ。その「分からなさ」を楽しんでみるのも、アリだと私は思う。
冒頭からしばらくは、中年男性が引っ越し作業をしている様子が淡々と映し出されていく。彼が引っ越しをするのには、当然、その後の展開に関係する理由があるのだが、冒頭の時点ではそれはまだ分からない。その中年男性が、この映画においてメインで映し出される人物の1人であり、しばらく観ていると、彼が「網谷勇気」という名前であることが分かってくる。
引っ越しの準備を終えた網谷勇気が向かったのは、なんと東京拘置所だった。年若い男性と一緒に出てくる。2人は、あるアパートの1室へと入っていった。そして、網谷勇気が引っ越し作業をしていたのは、東京拘置所へと迎えに行った男性と一緒に住むためだということが、ここで明らかになる。階段が急であることを除けば、2人で暮らすには十分な部屋だろう。
しかしそもそも、彼らの関係性も分からないし、何故一緒に住むことになったのかも分からないままだ。いや、その説明は正しくはないか。この時点では「親子なのだろう」と考えるのが自然だし、私もそう認識していたと思う。年齢的にも、網谷勇気には、拘置所へ迎えに行った男性ぐらいの息子がいてもおかしくなさそうだ。「刑期を終えた息子を迎えに行った」と考えるのが、状況としては一番しっくり来るだろう。
しかし次に続くシーンで、そうではなさそうだということが明らかになった。
網谷勇気を含む何人かの男性が、車座になって雑談をしている。それが何の集まりなのかは説明されない。しばらくとりとめのない話をした後で、網谷勇気がおもむろに「養子縁組をした」と話し始める。さらに、それを受けての周囲の人々の反応から、網谷勇気が「ゲイ」であることが分かるのだ。ただし、何の集まりなのか不明なため、その場にいる全員がゲイなのかは分からない。
こうして観客は、網谷勇気が、「ゲイでありながら、拘置所から出所した男性と養子縁組して親子関係となり、一緒に暮らすことになった」と理解することになるのだ。まさに『二十歳の息子』というタイトルがピッタリだと言えるだろう。もう1人の主人公である若者の名は、「網谷渉」である。
そんな2人と、彼らを取り巻く様々な人たちを映し出すドキュメンタリー映画というわけだ。
「カメラの透明さ」、そして「『ゲイであること』に焦点が当たらない構成」
映画を観ながら印象的だったのは、「カメラの存在が透明だったこと」だ。
私は結構ドキュメンタリー映画を観ているが、普通は「そこにカメラがあること」は大前提の事実として存在しているように思う。特に、「状況」にではなく「人物」に焦点を当てて撮影を行うドキュメンタリーであればなおさらだ。「カメラがあるという事実」は通常、「出演者のカメラ目線」や「撮影者との会話」、あるいは「出演者がカメラを意識する素振り」などによって強調されることになるのだが、『二十歳の息子』ではとにかく、「カメラの存在の希薄さ」が目立つように感じられた。
網谷勇気と網谷渉がカメラに向かって話す場面はある。しかし私の記憶では、そのような場面は2回ずつの計4回、時間にして2分もなかったんじゃないかと思う。そしてそれ以外の時間はすべて、「そこにカメラなど存在しない」かのように撮影がなされていたのだ。
同じようなやり方をしていて驚かされた作品が、映画『14歳の栞』である。ある中学校に長期密着したそのドキュメンタリー映画でも、カメラの存在をまったく感じさせない演出に驚かされた。
私は色々あって、テレビの取材を受ける経験を何度かしたことがあるのだが、やはり「カメラを向けられた状態」で「自然に振る舞う」ことは結構難しい。現代であれば、YouTuberや配信者みたいな人たちが増えているから、そういう状況に慣れている人も多いかもしれない。ただ映画『二十歳の息子』では、網谷勇気の両親や妹、あるいは彼が所属するある団体にもカメラが入り込む。そういう状況でも、常に「カメラの存在」が無いかのように撮り続けるのはかなり困難だろう。
『14歳の栞』をどんな風に撮影したのかは未だに謎だが、『二十歳の息子』の場合は、メインとなるのは網谷勇気と網谷渉だけなので、彼ら2人がカメラの存在に慣れてくれさえすればどうにかなりそうな気はする。他の場面については、「カメラに干渉したシーンはすべてカットした」と考えればいいからだ。
しかし、もしもこの想像が正しいなら、その演出は意図的なものと受け取るべきだろう。恐らくだが制作側はこの作品を、「ドキュメンタリーっぽく仕上げる」のではなく「フィクションっぽく仕上げる」ことを意図していたのではないかと思う。そう考えないと、「カメラの透明さ」の説明がつけられない気がするのだ。
冒頭で「変わった映画」と書いたが、それは、「ドキュメンタリー映画なのに、フィクションっぽい」という、この映画が有する特徴に依るところが大きかったのかもしれない。
またもう1点、良い意味で奇妙さを感じさせられたポイントがある。それは、「『網谷勇気がゲイである』という事実に、作中ではほぼ焦点が当てられない」ということだ。どうしてこれを「良い」と感じたのかと言えば、1つには、現代の「ポリティカル・コレクトネス」への”過剰な”配慮が挙げられる。
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