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【絶望】知られざる「国による嘘」!映画『蟻の兵隊』(池谷薫)が映し出す終戦直後の日本の欺瞞

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映画『蟻の兵隊』は、奥村和一が抱く様々な葛藤と共に、「終戦後、日本軍が中国に残り内戦を闘った」という知られざる歴史を炙り出す

私は本作『蟻の兵隊』についてほとんど何も知らないまま観に行ったこともあり、監督による上映後のトークイベントで語られたエピソードにそもそも驚かされてしまった。

私が本作を見たのはシアター・イメージフォーラムという映画館で、そして本作は18年前に同館で公開されたのだそうだ。シアター・イメージフォーラムには、1階と地下1階に1つずつ劇場があるのだが、公開時はその両方を使い、1日8回も上映したらしい。しかし、それでも立ち見が出るほどお客さんが押し寄せたという。『ゆきゆきて、神軍』や『カメラを止めるな!』など、単館映画館から大ヒットに至った映画は色々あるだろうが、本作もその1つというわけだ。

そんな本作で描かれるのは、「終戦後に、日本軍が上官の命令で中国に残り、4年に渡り中国の内戦を闘っていた」という驚くべき事実である。信じがたいことに、命令に従って残った彼らは「自らの意思で帰国しなかった」と見なされ、戦後補償を受けられていない。あまりにも異様な歴史ではないだろうか。

本作で描かれる、ちょっと信じがたい歴史

本作はドキュメンタリー映画であり、スポットライトが当たるのは奥村和一である。彼は第二次世界大戦時に中国の山西省へと送られ、そこで戦闘に従事していた。その後1945年8月15日の終戦を迎えたのだが、彼らは上官の指示で中国に残らざるを得なくなってしまう。こうして奥村和一のいた部隊は、中国国民党軍の一員として中国共産党軍と闘うことになった。実に4年間も、彼らは中国の内戦を闘っていたのである。

結局、2600名もの日本軍が残留し、その内550名が戦死した。その後5年間の捕虜生活を経て、奥村和一らは昭和29年(1954年)にようやく日本に帰還できたのである。

しかし、彼ら「残留日本軍部隊」の面々は、国からの戦後補償を受けられていない。その理由は驚くべきものだった。国が彼らを、「お前たちは”自由意志”で中国に残り、日本軍としてではなく傭兵として中国の内戦を闘ったにすぎない」と見なしているからなのだ。

中国にいた兵士たちも当然、ポツダム宣言が受諾されたことを知っていた。「これで戦争が終わった」「帰れる」と思ったに違いない。しかし、上官からの命令で仕方なく中国に残ることになった。彼らはその時点でも「日本軍人」という認識でいたため、「上官の命令には従うしかない」と考えていたのである。そしてそのせいで彼らは、終戦からさらに9年間もの時間を”無駄に”過ごすことになったのだ。

それなのに、国はその事実を認めていない。作中では、奥村和一らが裁判で自身の主張を訴える姿も映し出されるのだが、その判決は、彼らの主張を一顧だにしないものに私には感じられた。トークイベントでは監督が、「この裁判に対する国民の関心が薄かったからあんな判決が出たんだろうと私は思っています」と話していたが、それはその通りかもしれない。当時マスコミが報じていたかどうかは定かではないが、少なくとも私は、このような裁判が行われていることをまったく知らなかった。

しかし、奇妙ではないだろうか? どうして国は頑なに、「彼らは自由意志で残った」などという、どう考えてもそんなはずがない主張を通そうとしているのか、と。実はそこにはちゃんと理由がある。そしてその理由のために国は、「彼らが日本軍として中国に残った」とは絶対に認められないのだ。

というのも日本は、「侵略を継続させるために兵を中国に残した」からである。ただこれは、「私がそう解釈しただけ」だという点に注意してほしい。作中ではもう少し違う表現をしていたのだが、鑑賞時にはパッと意味が取れず、ちゃんとメモ出来なかったのだ(私は映画館でメモを取り、それを元に感想を書いている)。作中では「侵略を継続させるために兵を中国に残した」みたいな分かりやすい表現を使っていなかったので、場合によっては私の捉え間違いの可能性もあるが、ともあれも私はこのように解釈した。

つまり、「『中国の内戦への協力』という名目で兵を残し、敗戦を受け入れる”フリ”をしながら戦争の継続を目論んでいた」という事実を隠蔽するには、「彼らは自由意志で残った」と主張するしかないというわけだ。

また、ポツダム宣言の問題もある。こちらについても映画を観ているだけでは詳しく分からなかったが、奥村和一が作中で言及していたことを踏まえると、ポツダム宣言には恐らく「敗戦国に武装解除を求める文言」が含まれているのだと思う。まあ、そりゃあそうだろう。しかし「残留日本軍部隊」の存在は、「ポツダム宣言を受諾したはずなのに、武装した日本軍が存在していた」ことを意味する。つまり、その存在を認めてしまえば、ポツダム宣言に違反していたと認めることにもなるわけで、それを回避したいという思惑もあるのだと思う。

このような理由から、恐らく国は「残留日本軍部隊」の存在を決して認めはしないだろう。

しかし一方で、作中では「上からの指示があった」ことを示す証言・証拠が映し出される。最も重要な証言をしたのは宮崎舜市だろう。彼は終戦後、中国からの引き揚げを担当していたそうだ。しかし、実務が遅々として進まなかった。埒が明かないと感じた彼は自ら山西省へと向かい、現地にいた旧知の人物に事情を聞いたそうだ。そして、そこで彼は初めて「中国に一部の日本兵を残す」という計画の存在を知ったという。実際に、残留を命じる軍の命令書も目にしたそうだ。映画撮影時には、彼は意識がないまま入院していたのだが、そうなる以前にテレビ局のインタビューに答えており、そこではっきりと先のように証言していたのである。

また、奥村和一は証拠探しのために自ら中国へと足を運ぶのだが、その際にある文書を見つけた。それは、「残留日本軍部隊設立の意図や総則」について記されたものである。その中には、「いつが休日になるのか」といった、かなり細かな記述もあった。この総則等を作成したのは残留日本軍部隊のトップになった人物なのだが、当然、こんなものを勝手に作れるわけがない。奥村和一は、「もっと上の階級の承認が無ければ、こんな文書が存在するがはずがない」と断言していた。つまり、「総則について書かれた文章が存在する」という事実こそが、「日本軍が残留を命じたこと」を明確に示しているというわけだ。

しかし、この文書も裁判で提出したそうなのだが、国も裁判所もまったく無視を決め込んだという。もちろん、国際問題に発展する話であり、国としては嘘を押し通してでも隠蔽するしたという。だから、「真っ当な形での保証」は難しいのかもしれない。しかしそうだとしても、奥村和一ら残留日本軍部隊の面々が何らかの形できちんと報われるような、そんな展開になってほしかったものだなと思う。

自身の過去の悪事を受け止め、贖罪のために行動する奥村和一

トークイベントの中で、監督が本作『蟻の兵隊』を何が何でも完成させようと決意した際の出来事について話していた。

さてそもそもだが、当時の日本軍では初年兵訓練として「刺突訓練」が行われていたそうだ。監督によると、この「刺突訓練」は中国に送られた新兵のほぼ全員が経験しているのだそうだ。これは読んで字のごとく「突き刺す訓練」であり、「銃剣で人を殺す」ことを訓練としてやらせていたというわけだ。日本軍はこれを「肝試し」と呼んでいたという。

この事実を知っていた監督は、既に密着を始めていた奥村和一に「『肝試し』をしたことはあるか?」と聞いたそうだ。そしてやはり奥村和一は、「銃剣で人を殺す訓練をさせられた」と話したという。それを聞いた監督はすぐに、「じゃあその現場に行きましょう」と奥村和一に提案した。かつて自身が人殺しをした場所を再訪し、何を感じるのか確かめようというわけだ。

奥村和一は本作の撮影が始まる以前から中国へと自ら足を運び資料の確認などしていたため、監督は「もしかしたら人を殺した現場にも行っているかもしれない」と考えたそうだが、確認してみると終戦後は1度も訪れていないという。そして、そんな現場に行こうと提案された奥村和一は、「行かなければならない場所だと思っています」と答えたそうだ。監督は、「まさにこの時『この映画は絶対に完成させなければならない』と決意を新たにした」と語っていた。

では、「行かなければならない場所だと思っています」という奥村和一の返答には、どんな想いが込められていたのだろうか? この点については、監督が推測を語っていた。

奥村和一が「戦争の被害者」として国を訴えていたという話は既にした通りである。一方で彼は、自身の加害についてはこれまで沈黙を続けてきた。ただ私の個人的な感覚では、「沈黙していたこと」を悪いとは思えない。戦時中のことだし、望んでしたことではないからだ。もちろん、自ら語り反省出来ればより望ましいかもしれないが、それが出来なかったとしても責められる謂れはないと思う。

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