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【葛藤】子どもが抱く「家族を捨てたい気持ち」は、母親の「家族を守りたい気持ち」の終着点かもしれない:『ひとよ』(白石和彌)

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「家族であること」が「苦しみ」である場合、「家族の形」を維持することに意味はあるのか?

私は「殺人」という行為を全否定はしない

「どんな理由であれ、人を殺すことは良くないことだ」と考える人は多いでしょう。確かに、「命を奪う」というのは後戻りできない不可逆的な結果を生むし、可能な限り避けるべきだと思っています。でも、「命を奪うこと」でしか解決できない問題もある、と思ってもいるわけです。

もちろん、どんな理由であれ殺人を犯したのであれば、法に則って裁かれる必要があるし、法が定める刑罰を受けなければなりません。つまり私は、「ある種の『殺人』は罪に問うべきではない」などと主張したいわけではないのです。確かにそう感じることもあるのですが、この記事では「理由の如何を問わず、殺人という行為に見合った処罰を受けなければならない」という立場を取ります。

「殺人という行為でしか解決できない問題」そのものについて議論したいわけではありません。これについての私の意見は、「誰かを守るために犯す殺人」には致し方ないものもある、と書くに留めることにします。

では、映画の設定に少し触れましょう。

3人兄弟の母親は、夫をタクシーで轢き殺します。子どもたちに暴力を振るうからです。その暴力は、誰が見てもあまりにも酷いと感じるものでした。そこで母親は「夫を殺す以外に方法はない」と決意して殺人を実行するのです。もちろん、逮捕されるのは覚悟の上でした。

さて、私がこの記事の中で「殺人という行為を否定しない」という立場を取るのは、次のような議論をするためです。

「暴力を回避するために殺人を犯すこと」は「子どもたちを守ること」に繋がると言えるのか

この問いは、「殺人という行為」を許容しないと成り立たちません。

そしてこの映画ではまさにこの点、つまり「母親の行為は、子どもたちを守ることに繋がったのか?」という部分に焦点が当てられていくのです。

「暴力に耐えること」と「『殺人犯の子ども』という視線に耐えること」はどちらが辛いか?

3兄弟の1人がこんなことを言う場面があります。

親父が生きてる方が簡単だった。暴力に耐えてればいいんだもん

まさにこのセリフは、この映画の各となる部分を明確にするものと言えるでしょう。つまり、

あんたは俺たちを守るために父親を殺したっていうけど、あんたのせいで俺たちの人生メチャクチャだったよ

というような気持ちが込められているわけです。

これは難しい問いだ、と感じました。「殺人という行為を許容する」という立場を取ったとしても、「殺人という行為は本当に『誰かを守る行為』として成立するのか?」という問いが立ちはだかるというわけです。

「暴力」と「殺人犯の子どもというレッテル」は、その性質が大きく異なります。

例えば、「暴力」は永遠に続くわけではありませんが「レッテル」は永遠です。

「暴力」は、親に頼らざるを得ない子ども時代に限られることが多いのではないかと思います。大人になれば、どうにかして家を出て1人で生活していくことも無理ではありません。もちろん、親など家族からの「暴力」に長年ずっと悩まされているという人もいるでしょうが、一般的には期間が限定されていると言えるはずです。

しかし「レッテル」は、永遠に消えることはありません。特に現代のネット社会では、加害者家族の情報は何らかの形で明らかになってしまうものだし、そうなれば永遠に記録として残ってしまいます。「殺人犯の子ども」だということがまだ周囲にバレていなかったとしても、「いつかバレるかもしれない」という恐怖を抱えながら生きていかなければならないことは相当に苦痛だと言えるでしょう。

また、「暴力」は目に見えるけれど「レッテル」は目に見えません。

目に見えない「レッテル」の方が「バレにくい」と言えるかもしれませんが、上述の通り、今バレていないとしても、いつかばれるかもしれないという恐怖は消えません。目に見えるかどうかは、「バレるかどうか」より、「その苦痛を理解してもらいやすいかどうか」に関係すると私は考えています。

「暴力」は、その行為自体や、その行為による怪我などが目に見えやすいために、苦しんでいる人にアクションを起こしやすいでしょう。しかし「レッテル」の場合は目に見えないので、手を差し伸べようにもどうしたらいいか分からないと感じてしまうことの方が多いだろうと思います。

またもっとシンプルな違いとして、肉体的な苦痛か精神的な苦痛か、という違いもあります。ただし、どちらの苦痛をより辛く感じるかは人それぞれでしょう。

そしてこの映画の設定で何よりも難しい点は、「暴力」と「レッテル」のどちらか一方の選択しかできないことです。殺さないと決めるなら暴力を黙認するしかありませんし、殺すと決めれば後戻りは不可能です。どちらも酷い選択肢であることに変わりありませんが、いずれにしても「母親の決断」と受け取られることには変わりないでしょう。「殺す」という決断は当然母親のものと判断されるでしょうが、「暴力を黙認する」のもまた母親の決断と受け取られるはずだという意味です。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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