【実話】映画『グリーンブック』は我々に問う。当たり前の行動に「差別意識」が含まれていないか、と
完全版はこちらからご覧いただけます
黒人差別が今以上に苛烈だった時代のアメリカを描く映画『グリーンブック』は、意識しにくい「差別意識」を自覚させる強烈さがある
とても良い映画だった。設定は非常にシンプルながらとても奥深いし、また、どうしても説教臭くなりがちなテーマを扱っているにも拘らずそういう感じが全然ない。2人の主人公のそれぞれの立場が様々な描写によってスマートに描かれるし、さらに、お互いが関わることによってそれが少しずつ変わっていく展開もとても素晴らしかった。また、外国の映画の場合、描かれている「ユーモア」が日本人には分かりにくかったりすることもあると思うが、『グリーンブック』はそんなことはなく、クスッと笑える場面の多いコメディ的な作品でもある。それでいて、さりげなく教訓っぽいことを組み込んで色々考えさせる構成になっているので、嫌味にならずにスッと受け入れやすいのではないかと思う。
「実話を基にした物語」とのことだが、どこまで実話なのかは分からない。しかし、個々のエピソードはともかくとして、全体として「この2人にはこのような関係性があったんだろうなぁ」と感じられる作品であり、相容れないはずの2人が分かり合えていく過程はとても良かった。
「差別している」と自覚することはとてもむずかしい
以前、『ある奴隷少女に起こった出来事』というノンフィクションを読んだことがあるこの本は、奴隷として育った少女が白人男性の元を逃げ出した後、当時の記憶を自ら書いた作品だ。「黒人奴隷に読み書きが出来たわけがない」という理由から、当初は「白人が書いた小説」と思われていたのだが、研究によって著者が実在の人物であることが判明し、その後古典作品として大ベストセラーになった。
それまで「奴隷制度」について深く考えたことなどなかったのだが、この『ある奴隷少女に起こった出来事』を読んで私は、「差別意識を持つことの難しさ」を理解させられた。なんと当時のアメリカ南部では、「黒人奴隷を有する家庭」は「裕福」の象徴であり、羨ましがられていたのである。つまり、「黒人を奴隷として使役すること」に対してなんの躊躇いもなく、「当然のこと」「豊かな生活には無くてはならないもの」として認識されていたというわけだ。
しかし現代の視点で捉えれば、「同じ人間なのに、非人間的に扱って酷使するなんて信じられない」と受け取られるだろう。この2つの間には、大きな断絶がある。どちらも、それぞれの時代では「当たり前の感覚」なのだ。しかし時代の変遷によって、「当たり前だったこと」が「極悪非道の行為」と見做されるようになっていったのである。
だからこそ、私たちも気をつけなければならない。つまり我々も、「もしかしたら今、『100年後の人類から極悪非道と判断されるような行為』をしているかもしれない」という意識を持っている必要があるというわけだ。
映画の中で、とても印象的なシーンがあった。主人公の1人である黒人の天才ピアニスト、ドクター・シャーリーは、招待を受けて演奏のためにある会場を訪れる。シャーリーは今、黒人への差別が一層色濃く残るアメリカ南部での8週間のツアーの最中であり、この会場も予定会場の1つというわけだ。そして彼は、その会場に併設されたレストランで食事を摂ろうと考える。
しかし、レストランに入ろうとしたシャーリーは、入り口で止められてしまった。「黒人だから」という理由で、レストランでの食事が許されないと説明されるのだ。繰り返すが、シャーリーは翌日、その会場で演奏を行う「VIP」である。さらに言えば、今まさにそのレストランで食事をしている客は、翌日のシャーリーの演奏を聞きに来た者たちなのだ。にも拘らず、シャーリーは結局、最後までレストランでの食事が許されなかったのである。
これは凄まじい判断だと感じた。「てめぇで招待した会場のレストランで食事が出来ねぇとはどういう了見だ」ってなもんだろう。現代的な感覚で言えばそうなるはずだ。しかし、少なくともこの映画で描かれている限りにおいては、シャーリーの入店を断るマネージャーに悩む素振りはない。「俺は当たり前のことを言っている。黒人のお前が俺を困らせているんだ」と言わんばかりの態度なのだ。
せめて、「あなたの主張が正しいことは理解していますが、ルール上どうにもしようがないんですよ」みたいな感じで断られるなら、100歩譲ってまだ許容出来るかもしれない。しかしそんな雰囲気ではまったくないのだ。「お前、マジで何言ってんの?」みたいな雰囲気を前面に出しており、その態度にはちょっと驚かされてしまった。
しかし繰り返すが、私たちはこのマネージャーを単に非難するだけではいけない。彼は、「当時のアメリカ南部の『当たり前の感覚』に従って行動していただけ」なのだ。であれば、同じ非難を私たちが受ける可能性も十分にあると考えるべきだろう。私たちが「現代の『当たり前の感覚』に従って行動していること」が、未来の世界では「なんて酷いことを」と受け取られる可能性はいくらでもあるからだ。
この視点を、常に忘れてはならないと私は感じる。
これは決して「差別」に限らない。例えば、現実的な話で言えば、「気候変動に関わる行動」に関して、未来世代から悪し様に言われる可能性はかなり高いだろう。「100年前はあらゆる乗り物がガソリンで動いてたらしい」「キャンプで焚き火してたとか正気?」みたいな時代がやってくるだろうし、そうなれば間違いなく、私たちは非難の対象である。
これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます
ここから先は
¥ 100
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?