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【弾圧】香港デモの象徴的存在デニス・ホーの奮闘の歴史。注目の女性活動家は周庭だけじゃない:映画『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』

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香港の人気歌手デニス・ホーは、なぜ香港民主化運動の象徴的存在になったのか?

日本で香港の民主化運動が取り上げられる際は、周庭さんが注目されることが多い。もちろん、周庭さんも香港の人々にとって旗印のような存在だろう。しかし香港には、周庭さんよりも前に、民主化運動の先頭に立つ者として広く知られる人物がいた。

それが、香港ポップスのスターであるデニス・ホーだ。私はこの映画を観るまで、彼女のことはまったく知らなかった。

デニス・ホーはなぜ逮捕され、カナダへと移ったのか

デニス・ホーは2014年、いわゆる「雨傘運動」に参加した。9月28日から79日間続いた民主化要求デモで、学生・市民が繁華街を占拠し、中国中央政府のある決定に抗議の意思を示したのだ。催涙弾や催涙スプレーから身を守るために雨傘で対抗したことからそう呼ばれている。

デニス・ホーは、繁華街を占拠した学生たちを支持し、自ら先頭に立ってデモに加わり、最終的に逮捕された。この影響で彼女が失ったものはとても大きい。

2003年以降、香港のスターたちは中国から収益を得るようになっていった。彼女も同様で、本格的に中国に進出すると、世界的企業とのタイアップにも恵まれ、「楽にお金が稼げる」という状況だったそうだ。

しかし、中国中央政府に抗議する「雨傘運動」に参加したことで、デニス・ホーは中国で活動できなくなってしまう。収入の9割が失われたそうだ。中でもインパクトを与えたのが、世界的化粧品メーカー「ランコム」だった。「ランコム」は彼女のライブのスポンサーになっていたのだが、中国からの”圧力”があったのだろうか、スポンサーを下りてしまったのだ。この一件は香港市民に衝撃を与え、

世界的企業でさえ中国の”圧力”に屈してしまうのだ。

という絶望をもたらした。

2016年、デニス・ホーは小口のスポンサーを募りライブを行う計画を立てる。50程度集まればいいと考えていたスポンサーは、最終的に300に上り、大手スポンサー後援のライブよりもお金が集まったそうだ。しかしこのライブ以降、彼女は香港でライブを行っていない。開催の見込みが立たず、断念しているそうだ。そんな状況ゆえに、彼女は、第二の故郷であり、実の両親も住んでいるカナダ・モントリオールへと拠点を移すことにした。

では、なぜ彼女の両親はモントリオールに住んでいるのだろうか?

カナダ・モントリオールから香港へ「逆輸入」されたポップスター

香港の中国返還は1984年に合意され、1997年に行われた。この決定に、香港市民は大いに落胆したという。返還のまさにその日、香港には雨が降っていたようで、香港市民はその雨を見て、

天が香港のために泣いている。

と嘆いたのだそうだ。

中国への返還が合意された当時、香港では「直接選挙を求める運動」が行われた。中国に返還されることで、それまでの自由を手放したくなかったのだ。当然だろう。そしてその直後、中国で天安門事件が起こる。香港市民は、事態の行方を固唾を呑んで見守った。民主化に対する市民の動きに共産党がどう反応するかで、香港の未来も決まると考えていたからだ。

結果は誰もが知る通り、軍はなりふり構わず市民を射殺し、徹底的な弾圧を行った。香港でも同じことが起こると考えたのは当然のことだろう。そんなわけで香港市民は、「香港に住み続ける」か「移住する」かの選択を迫られることになったのだ。

その結果として、デニス・ホーの両親はモントリオールへの移住を選んだのである。

モントリオールで生まれ育った彼女は、

モントリオールでの生活がなければ、今の私はない。個人を尊重し、価値観を高め合うことをここで学んだ。

と語っていた。デニス・ホーの人生には、活動家として立ち上がるまでにターニングポイントとなる出来事がいくつか存在するのだが、「モントリオールで生まれ育ったこと」はその大きな1つと言っていいだろう。

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