【正義】「正しさとは何か」を考えさせる映画『スリー・ビルボード』は、正しさの対立を絶妙に描く
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私たちの日常生活でも、「正義」は常に対立しうる。そんな対立をどう乗り越えていくべきか?
「正しい」と主張するために必要なもの
「正しい」という言葉は、日常の中でよく耳にする。特に意識することなく、当たり前のように使ってしまう言葉だろう。
しかし、「正しい」という状態が何を指すのか、きちんと考えてみることはあるだろうか? 「正しい」というのは当たり前の概念すぎて、なかなか深く考える機会はないだろうと思う。
以下の議論は、「数学」や「科学」における「正しさ」の話とはまた違う。そういう学問的な話ではなく、普段の日常の中で使われる「正しい」について考えてみよう。
さて、「人を殺してはいけない」という主張は正しいだろうか? 恐らくだがほとんどの人が「正しい」と答えるだろう。ではなぜ正しいと感じるのか考えてみよう。「自分が殺されるのは嫌だから」「誰かが殺されるのは悲しいから」など色んな答えが想定できるが、恐らく多くの人は「法律で決まっているから」と答えるのではないかと思う。
これはつまり、「正しさ」の背後には常に「正しさの基準」が存在するということだ。別にその「正しさの基準」は、「法律」に限らない。ルール、規則、掟、試験の採点基準など様々なものが該当する。私が思う重要な点は、「あるコミュニティの中で、その『正しさの基準』を守るべきという共通認識が存在していること」だ。
だから、「暗黙の了解」「マナー」などは、私の考えでは「正しさの基準」に当てはまらない。それらは、「そのように行動すると『より良い』と評価されるが、しなくても『間違い』ではない」という種類のものだ。そういうものを、私は「正しさの基準」とは認めない。
これが、私の前提だ。
さて、法律やルールのような「正しさの基準」が存在するからこそ、「正しい」という評価が成立し得る。そしてだからこそ、「人を殺してもいい」という主張もまた成り立つことになるのだ。
例えば、戦場では「人を殺してもいい」ことになっている。なぜそんなことが許されているのだろうか。
それは「正しさの基準」があるからだ。戦争については様々な国際法が存在し、その国際法に違反していなければ、「国際法が認める戦争」と認定される。そして「国際法が認める戦争」においては、人を殺してもよいことになっているのだ。
一方世の中には、「正しさの基準」がそもそも存在していない世界で「正しさ」が対立する場面もある。現代では主にインターネット上でそのような対立を目にすることができるだろう。対立している双方が、「自分たちの主張の方が正しい」と言い合うのだが、しかしそもそも、「何をもって正しいとするのかという基準」が存在しないのだから、その対立は無意味でしかない。不毛な対立を止めるか、どうにかして「正しさの基準」を作るしかないだろう。
世の中には様々な価値観が存在し、また、日本を含め世界中の多くの国で「思想の自由」が認められているのだから、それが「法律」のような「正しさの基準」に抵触しない限り、どんな価値観も許容されるべきだ。もちろん、資本主義には「多数決」の論理が組み込まれているので、社会を正常に動かしていくために「多数派の主張をとりあえず正しいことにする」という暫定的な判断が行われる。しかしこの判断はあくまでも「社会を動かすための暫定的なもの」でしかなく、多数派の価値観だから正しいわけではない。
私は「正しい」という言葉を使う時、このようなことを考える。そして、この辺りのことを勘違いして議論が展開されている様を見ると、なんだか疲れるし、絶対に巻き込まれたくないと感じてしまう。
さてそんなわけでここまで、「『正しさ』の判断のためには『正しさの基準』が必要だ」という話を書いてきた。しかしこの判断には、1つ注意しなければならない点がある。
そしてまさにこの映画は、この「注意点」を巧みに利用して物語を展開していくのだ。
「規制されていなければ何をやってもいい」という理屈
法律でもルールでも、多くの場合「○○してはいけない」という形で示されるだろう。もちろん、「○○の場合は△△してよい」という表記も存在するが、これも結局は、「○○の場合以外は△△してはいけない」を言い換えたものに過ぎない。「正しさの基準」は、「何かを規制する」という形で存在すると考えていいだろう。
では、規制されていなければ何をやっても「正しい」と判断されるだろうか? これは案外難しい問題だと私は感じる。
つまりこれは、「間違ってはいない」と「正しい」を同一視するかどうか、という問いだとも言えるだろう。
私は、あくまでも”基本的に”ではあるが、こんな風に考えている。悪法も法であり、それが法である以上従わなければならないし、不満があるのなら法そのものを変える努力をしなければならない。世の中のありとあらゆる場面にこの考え方を適用するつもりはないが、原則的に私はそのような振る舞いが「相応しい」と考えている。
さて、そんな原理原則を持っている私は、「規制されていないことはすべて『正しい』と判断する」と考えるべきだと思う。悪法も法だとするなら、法の抜け穴もまた法だろう。本来なら「悪」と判断されるべき事柄が法に不備があることで見逃されているのだとしても、「まずは法を変えるべき」というのが、原理原則に沿った主張だとは思う。
しかし、感覚的にはどうも首肯しにくい。「間違っていない」はあくまでも「間違っていない」に過ぎず、決して「正しい」と同一視はできない、というのが私の感覚的な意見だ。
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