記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

【超長文】映画『鳩の撃退法』ネタバレ考察。津田伸一の小説は何が真実で、実際は何が起こっていたのか?

完全版はこちらからご覧いただけます


ネタバレ全開で『鳩の撃退法』の考察を行う

もの凄く面白い作品でした。非常に良く出来た構成で、「何が真実なのか」を考えながら展開を追っていくという鑑賞体験が非常に魅力的だと感じます。内容については後でネタバレ全開で詳しく触れますが、「小説家が執筆した物語の内容は事実なのか」という点が非常に重要なポイントとなる作品で、最後の最後まで「何が真実なのか」に揺さぶられ続けるでしょう。

原作がある映画で、私は原作も読んでいます。

上下巻という重厚な作品ですが、一気読みさせられてしまいました。読んだのが大分昔なので、正確なことを覚えているわけではありませんが、原作そのままを映像化するのはかなり困難なはずなので、恐らく原作と映画では内容に若干違う点があると思います。

上下巻という長い小説を2時間にまとめる場合、原作から要素を削りすぎてつまらない内容になってしまうことも多いのですが、『鳩の撃退法』はそんなことはなく、原作は原作として、映画は映画としてどちらも楽しめる作品に仕上がっていると感じました。

映画の内容紹介

主人公は、小説家・津田伸一。かつて有名な文学賞を受賞したこともある作家だが、現在は文壇から離れており、どんないきさつがあったのか、富山県のデリヘルでドライバーとして働いている。「房州書房」という古本屋の店主と懇意で、日々他愛のないやり取りをしながら、とりたてて何もない日々を過ごしている。

すべてが動き出したのは、うるう年の2月29日のことだ。津田はよく行くコーヒーショップで、よく見かける男に声を掛けた。その男はいつも本を読んでいる。そのコーヒーショップで本を読んでいる者など他におらず、ずっと気になっていたのだ。

2人の会話は、どうということもない内容である。津田は房州書房で買ったピーターパンの本を持っており、男に「ピーターパンは実は女たらしなのだ」という話を始める。男は家にいる妻と娘のことに少し触れ、何か自分に言い聞かせるようにして2人の愛を語る。

去り際に津田は男に、「だったら別の場所で2人を出会わせるべきだろうな」と呟く。男が持っていた本の帯に書かれていたことに反応したのだ。

そんな他愛もないやり取りをした後、その男・幸地秀吉は家族と共に失踪した。しかし津田がその事実を知るのは、少し先のことになる。

失踪する直前の秀吉の足取りはこうだ。その日、彼は妻から妊娠を告げられる。それは秀吉にとって信じがたい告白であった。そしてその衝撃ゆえに、秀吉は店長を務めるバーに欠勤の連絡を入れ、バイトに店を任せた。そしてその後、コーヒーショップに行き津田と出会うことになるのだ。

さて、2月29日の津田の行動はどうだっただろうか。この日彼は非常に慌ただしい夜を過ごしていた。

秀吉と別れた後、津田はデリヘル嬢のまりこから呼び出される。なんでも、友人を駅まで送ってほしいというのだ。友人だと紹介された男(晴山)を車に乗せるが、ターミナル駅まで送ってあげてほしいというまりこの指示に反して、晴山はその先の無人駅へと向かうよう口にする。

その道中、デリヘルの社長から電話が掛かってきた。うっかり面接希望者とのアポイントをすっぽかしてしまったから、メシ代を払って家まで送ってやってくれないか、というのだ。津田は、まず晴山を無人駅へと送り(そこで晴山は別の車に乗り込み、女とキスをする)、それからファミレスへと向かった。

そこで待っていた「面接希望者」というのは、先日津田が房州書房の店内で見かけた女性だった(蔵書を売りに来ていたのだ)。恐らくシングルマザーなのだろう、2人の娘を連れて面接を待っていた。面接は後日改めてと伝え、彼女たちを家まで送り届ける。

これが、2月29日に起こった出来事である。

それからしばらくして、房州書房の店主が亡くなった。津田は、房州書房を管理する不動産会社の女性とセフレのような関係にあり、その女性から、店主が津田に遺したキャリーバッグの存在を聞かされる。そのバッグを受け取る際に、津田は女性から「秀吉一家が失踪した」という事実も併せて耳にしたのだ。

店主が遺したキャリーバッグには4桁のダイヤル錠がついていた。津田は「0000」から地道に数字を合わせ、なんとか解錠に成功する。

中にはなんと3003万円の現金が入っていた。いつどこで紛失したのかも覚えていないピーターパンの本と共に。

なんだこれは?

ここで物語は、舞台を東京へと移す。

実はここまで説明してきた「富山で起こった出来事」は、すべて「津田伸一が書いた小説の内容」である。その原稿に、出版社の編集者が目を通している。編集者は津田が働く高円寺のバーまでやってきて、彼の原稿を出版すべく検討しているのだ。

そんな彼女が何度も津田にぶつける質問が、「これはフィクションなんですよね?」である。

実は津田には厄介な過去がある。事実をそのまま小説にしたと訴えられたことがあるのだ。津田自身はそれを苦い記憶だと思っていないようだが、編集者は同じ轍を踏むまいと慎重になっている。

津田は言う。この小説は、「現実の出来事を元にした、起こり得た物語」である、と。しかし、津田の小説に書かれたことの「続き」のような出来事が、津田や編集者がいるバーで度々繰り広げられることになり……。

「津田の小説が事実か否か」はなぜ「問題」なのか?

この映画では、津田の原稿をチェックする編集者による、「この原稿は事実なのかフィクションなのか」という疑問が、1つ大きな問題として取り上げられます。

もちろん、これが問題になるのは、内容紹介で説明した通り、かつて津田が訴訟問題に巻き込まれているからです。しかし実は、それだけではありません。編集者は、この原稿を出版したら訴訟問題などのトラブルに巻き込まれるのではないか、と心配しているだけではなく、この原稿を出版することで津田が直接的な被害を受ける可能性があるのではないか、という可能性まで考えています。

というのも、津田が小説に書いていることは、「裏社会」の実情を暴くようなものだからです。

富山で津田が住んでいた周辺には、「本通り裏」と呼ばれる「裏社会」の存在がまことしやかに囁かれています。その「本通り裏」を牛耳る「倉田健次郎」という男のことを誰もが恐れており、津田の小説はその「倉田健次郎」の悪事を指摘するような内容なのです。

津田が受け取った3003万円の一部を使ってみたところ、それが「ニセ札」であることが明らかになり大騒動を引き起こすることになります。小説の中では、「この町で何か起これば、倉田さんが絡んでいる」という発言が出てくるので、当然この「ニセ札」も倉田健次郎と関わるでしょう。さらに津田の書いた小説は、「秀吉一家失踪」にも倉田健次郎が関係しているのではないか、という展開を見せることになります。

小説の中で津田は、「本通り裏」とはほとんど関係がないということになっています。津田の「現実の出来事を元にした、起こり得た物語」という発言をそのまま受け取れば、津田の小説の成り立ちはこう推測できるでしょう。現実世界の津田自身は、ごく僅かな情報しか得ていないが、それらをつなぎ合わせ、抜けている部分を想像力で補うことで、「こんなことが起こったのではないか」という物語を紡ぎ出したのだ、と。

例えば、「お◯◯うご◯◯ま◯」のように歯抜けになっている文章の途中の文字を想像力で埋めて「おはようございます」という文章を再現している、というようなイメージでいいでしょう。

津田はバーの中で編集者に問われて、「『小説を書く前に自分が知っていた情報』はたったこれだけだ」と具体的に列記していました。本当にそれしか知らず、残りの部分を想像力で埋めているのだとすれば、津田にとっても編集者にとってもなんの問題もありません。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

編集者はバーで、「3000万円の寄付に感謝する人物」や「秀吉と思われる人物が返したピーターパンの本」などに遭遇します。これらは間接的に、「小説の中でフィクションとして描かれている、津田が本来的には知り得なかった出来事も、実際に起こったことである可能性」を示唆するわけです。

そうなってくると、津田の「現実の出来事を元にした、起こり得た物語」という主張を疑う余地が出てくるでしょう。津田は想像力で余白を埋めたのではなく、事実を知っていてそれを小説に書いただけなのではないか。もしそうだとすれば、その原稿を出版することによって津田も出版社も危険にさらされる可能性があるわけです。

そんな背景があるために、この作品では、「津田の小説の内容はどの程度真実であり、どの程度フィクションなのか」という点が非常に重要な問題として焦点が当たり続けることになります。

考察を始める前に押さえておくべき基本的なスタンス

ここまで書いてきたことは、この映画で提示される情報や押さえておくべき見方などについて私なりにまとめただけです。

それではここから、私なりにこの映画を考察していきたいと思います。

まず、この映画を捉える際、確実に「支柱」になると言えるものを押さえておきましょう。それは、「編集者が絡む『東京編』で描かれることはすべて事実だ」という点です。

先ほどから書いている通り、この映画は「編集者が、津田の作品の真実性を見極めたいと考えている」という点がポイントの1つなので、「編集長が存在する場面で起こる出来事は、すべて事実だと捉えていい」ということになるでしょう。というか、そう考えなければ話が進みません。

津田の小説に関して、編集者が共犯となってウソをつく動機は一切ないので、「編集者が目撃したことは実際に起ったこと」と捉えていいでしょう。

一方で、「『富山編』はすべての描写が嘘である可能性がある」という点も重要です。富山で起こった出来事(津田が小説に書いている内容)にも事実は含まれているでしょうが、どれが事実であるか判定する術はありません。なので考察を行う際には、「『富山編』で何が起こったか」から考えるのではなく、「『東京編』で何が起こったか」を軸足にする必要があるのです。

さらに私は、「『東京編』における津田の発言は嘘の可能性がある」と捉えています。「東京編」はほぼすべて事実と考えていいわけですが、津田の発言だけは信用できません。というのも私は、津田がこの小説を書いた動機は、「何らかの真実を覆い隠そうとするため」だと考えているからです。津田には、事実を捻じ曲げてでもこの小説を書かなければならない動機があり、そのためならいくらでも嘘をつく、という風に私は捉えています。

だから、「東京編」の内容であっても、「津田がどんな風に語っているか」についてはすべて疑問符をつける必要があると考えるわけです。

これが、私が考察を始める際のスタートラインになります。このスタンスに疑問を抱く場合、私の考察内容はまったく的外れということになるでしょうから、ここで読むのを止めていただくのがいいかと思います。

考察1:「秀吉一家失踪事件」

まず「秀吉一家失踪事件」について考えていきましょう。これは間違いなく起こったことだと断言できます。何故なら、編集者が富山まで行き確認しているからです。

編集者は富山で、津田が通っていたコーヒーショップの店員・沼本と会い、彼女から聞く形で「秀吉一家失踪事件」の事実を確認しています。沼本が編集者に嘘をつく理由も無いでしょうし、売りに出されている秀吉一家のかつての家自宅も見ています。

ただ実際のところ、津田と沼本がどんな関係性なのかは分かりません。2人の関係は「富山編」でしか描かれないからです。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

10,853字

¥ 100

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?