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【衝撃】『ゆきゆきて、神軍』はとんでもないドキュメンタリー映画だ。虚実が果てしなく入り混じる傑作

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奥崎謙三という元兵士を描き出す異端のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』の衝撃

『ゆきゆきて、神軍』というドキュメンタリー映画の存在は知っていた。「名作ドキュメンタリー映画」のようなランキングでは必ず名前が挙がる作品だし、私も名前だけは度々目にしていたのだ。しかし、基本的に「映画館で上映している映画」しか観ないと決めている私にはなかなか観る機会のない映画でもあった。

しかし映画館で上映されると知り、これは観るしかないと思ったのだ。

とにかく凄い映画だった。正直、映画のタイトルを知っていた程度で、どんな映画なのかも、奥崎謙三の名前さえも知らなかったので、冒頭からずっと圧倒されっぱなしだったと言っていい。とんでもなくヤバい人がいて、そんな人がカメラの前でとんでもなくヤバいことをしている。「そんなものを映像に収めてもいいのだろうか」というビクビクした気持ちを勝手に抱きながら鑑賞したという感じだ。

映画が終わった後に行われた、原一男監督のトークショーも非常に面白かった。しかも、映画を観ているだけでは絶対に分からない点についても触れており、映画を観終わった時の印象と、トークショーを聞き終わった時の印象が大分違う。その点も非常に興味深かった。

そこでこの記事では、まず「映画を観た直後の感想」について触れ、その後、トークショーを聞いた上でその感想がどう変化したのかを書いていこうと思う。

内容紹介(というか、奥崎謙三の紹介)

まず、映画で焦点が当てられる奥崎謙三という人物について触れておこう。『ゆきゆきて、神軍』は、彼に密着する「情熱大陸」のような映画だと表現すると分かりやすい。

戦時中、彼は36連隊の兵士として激戦地ニューギニアに送られた。しかし、本人曰く「兵士の中で誰よりも上官を殴った」そうで、そのため日本へ帰還させられ、結果として戦死を免れる。

終戦後は、神戸市でバッテリー商を始めた。しかしその一方で、1人でアナーキストとしての活動もスタートさせる。彼は「たったひとりの神軍平等兵」を名乗り、天皇の戦争責任を追及したり、車に「田中角栄を殺す」とはっきり記して自説を主張するなど、かなり過激な活動家として日々を過ごしているのだ。

刑務所にも幾度も収監されている。昭和31年に不動産業者の傷害致死罪で懲役10年、昭和44年に天皇に対してパチンコ玉を発射した罪で懲役1年6ヶ月、昭和51年にビルの屋上から「天皇ポルノビラ」を撒いた罪で懲役1年2ヶ月と、かなり長期に渡り刑務所暮らしを経験した。

そんな人物なのだ。

カメラは、奥崎謙三に密着する。彼の行動は、ムチャクチャだ。撮られていることなどお構いなしに相手を殴る。自分で喧嘩を仕掛け、何故か自分で警察を呼び、自らの正当性を主張する。議論となれば、ハチャメチャとしか思えない理屈を駆使してでも、相手を屈服させるまで絶対に引かない。「人生の当たり屋」みたいな感じの人物だと言っていいだろう。

『ゆきゆきて、神軍』は、我々には”非日常”にしか感じられないそんな奥崎謙三の”日常”を追い続け、「衝撃のラスト」に至るまでの”虚実入り混じった人間像”を描き出す作品だ。

奥崎謙三のことは「嫌い」だが、「嫌いにはなりきれない」という不思議さがある

ここではまず、映画を観終えた時点での感想について触れよう。

まずはっきり言えるのは、奥崎謙三のことが「嫌い」であるということだ。こんな人物とは、それがどんな理由であれ関わりたくないし、人間性を許容できない。壮絶にめんどくさい人物だ。

しかし同時に、「嫌いにはなりきれない」という感覚にもなる。私がそう感じる最大の理由は、奥崎謙三が常に「誰かのため」に行動しているように思えるからだろう。「彼の行動そのものには一切共感できないが、彼の行動原理には共感の余地がある」と判断しているのである。

映画の中でかなりのボリュームで描かれるのが、「終戦後の36連隊兵士処刑事件」だ。奥崎謙三の主張をまとめると以下のようになる。

8月15日に終戦を迎えたという事実を、ニューギニアにいた兵士たちも8月15日の時点で知った。しかし終戦から23日後、既に9月を迎えていた段階で、36連隊の兵士が中隊長に射殺されたという疑惑が存在する。

奥崎謙三は遺族と共に、かつての仲間や上官の元を訪ね歩く。そして、「それは実際に起こった出来事なのか?」「実際に起こったとするなら、指揮命令系統はどうなっていたのか?」「その場には誰がいて、引き金を実際に引いたのは誰なのか?」などについて問いただし、議論しようとするのだ。その過程で相手と揉め、乱闘のような状態になることもある。とにかく、「どんな手段を使ってでも相手の口を割ってやろう」という意気込みが強い。

彼のやり方はムチャクチャだ。そもそもアポ無しで押しかける。相手の主張に納得がいかないと、手術を終えた病人にも殴りかかる。理由はよく分からなかったが、途中から遺族が同行しなくなり、代わりに自分の妻を遺族と偽って連れ回す。

はっきり言って最悪だ。ただし、それらの行動はすべて、「自分の納得のためではなく、誰かのためを思ってやっている」のであり、その感覚だけは否定しきれないとも感じる。

さらに、公式HPを読んで衝撃を受けた。「36連隊の兵士を訪ね歩く」というこの映画を支配する行動について、監督がこんな風に書いているのだ。

だが、奥崎さんは、戦場で起きた事件なんかに興味はなかったのだ。「戦後36年経った今、戦争時の話を映画にしても誰も興味を持ってくれませんよ」と言っていた。(中略)「元兵士たちを訪ねてみてください。間違いなく、何かがありますから」と説得する私に、ほとんど関心ないが、そこまで原さんがおっしゃるなら、いいですよ、と渋々OKしてくれたのだ。

なんと、元々「処刑事件」には興味がなかったというのだ。実際には、元兵士を尋ね歩くことに次第にのめり込み、突っ走っていくことになるわけだが、当初の動機は奥崎謙三自身にはなかったというのである。これもまた「誰かのため」という捉え方でいいだろう。

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