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【絶望】杉咲花主演映画『市子』の衝撃。毎日がしんどい「どん底の人生」を生き延びるための壮絶な決断とは?

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映画『市子』は、杉咲花の演技がとにかく圧巻だった!壮絶過ぎる人生を生きざるを得なかった少女の葛藤と決断を、凄まじい熱量で描き出す作品

何はともあれ、「杉咲花が圧巻だった」としか言いようのない映画だった。杉咲花以外でこの役を演じられる役者はちょっといないんじゃないだろうか。それぐらい、凄まじい演技だったと思う。

彼女が演じたのは、映画のタイトルにもなっている市子。そして物語は、「市子がどのような過去を背負っているのか」にその焦点のほとんどが当てられている。

だから、作品の中身について具体的に触れるのは難しい。

もちろん本作には、「市子を助けようとする者」の物語も描かれる。しかしやはりそれは、「市子」という女性の凄まじい存在感を前提とした、ある種の「付属物」のようなものと言っていいと思う。そして、その「市子の存在感」は、「市子が辿ってきた過去」から生み出されるのであり、その壮絶さを体感するために本作を観ると言っても過言ではないのだから、この記事で「市子の過去」に触れるわけにはいかないのである。

だから本作では、「市子の過去」そのものには一切触れない。もちろん、「大変な状況を経験してきた」と示唆するようなことは書くが、具体的なことは書かないつもりだ。

さてそうなると、映画『市子』の中身に触れる場合、もう1人の主人公・長谷川義則視点で書くしかないことになる。というのも彼は、3年間も市子と共に暮らしながら、市子についてほとんど何も知らなかったからだ。つまり、観客とほぼ同じ立ち位置の人物なのである。

そのためこの記事では、「長谷川義則には何が見えていたのか」という観点から、映画『市子』について触れていこうと思う。

まずは内容紹介

物語は、2015年8月13日に始まる。この日、市子が姿を消した。

長谷川はいつものように仕事から戻ったのだが、部屋にいるはずの市子がいない。開け放たれたままのベランダには、市子の荷物が詰まったバッグが置かれている。事件の可能性もあるのかもしれない。しかし恐らく、何らかの理由でバッグを持ち出すことを諦め、自らベランダから出ていったのだろうと思われた。こうして、3年間共に暮らしていた時間が、唐突に終わってしまった。

その前日のこと。給料日前で家計が苦しい2人は、「肉が少ないシチュー」を食べていた。そこで、「子どもの頃に好きだった食べ物」の話になる。長谷川は「肉」、そして市子は「味噌汁」と答えた。市子にとって味噌汁は「幸せの匂い」なのだそうだ。それを聞いた長谷川は、バッグからあるものを取り出す。婚姻届だ。ストレートに「結婚して下さい」と口にする長谷川に、市子は困惑の表情を浮かべつつも、泣きながら「嬉しい」と答えた。

市子が失踪したのは、その翌日のことだったのである。

8月21日。長谷川の元に、後藤と名乗る刑事がやってきた。何故か、川辺市子のことを探しているのだという。「何らかの事件に関係している」ことまでは探れたものの、詳しいことは教えてもらえない。そんな中長谷川は、刑事から市子について色々聞かれるのだが、「お互いのこと、あんまり話したことがなくて」と応えることしかできなかった。一緒に住んではいたものの、市子の「これまでのこと」にあまり深入りしたことがなかったのだ。

お互いに収穫のない時間を過ごしつつ、刑事は、長谷川が撮影した市子の写真を見ながら、こんなことを口にした。「彼女、どうも存在せぇへんのですよ」。刑事は、なんとも不思議そうな顔をしていた。

長谷川は独自に市子のことを調べ始める。新聞配達の仕事をしていたと聞いたことがある長谷川は、市子のかつての職場を訪ね、そこで「当時同じ寮で暮らしていた、今パティシエをやっている女性」を紹介してもらった。そして、実際に彼女と会い、当時の市子の話を聞かせてもらう。

こうして、後藤が自力では絶対にたどり着けないだろう情報を手に入れた長谷川は、それを手土産に刑事と交渉した。自分が知っている情報を提供するので、市子のことを教えて下さい、と。

「もし自分が市子の立場だったらどうしただろうか」と考えさせられた

鑑賞中、頭の片隅にずっとあったのは、「もし市子と同じ立場にいたらどうしただろうか」という思考である。これは、「法を犯す決断をした市子を許容できるのか」という問いの裏返しであるとも言える。

本作を観て、「市子がやってきたことは、法律的にも倫理的にもアウトなのだから、到底許されるものではない」としか感じられない人は、ちょっと想像力に欠けるのではないかと私は思う。もちろんそれは、立場によっても変わる。後藤みたいに「法律を守らせることが責務」であるような人だとしたら、個人の見解はともかく、職業人としては「市子のやったことは許容できない」と判断すべきだし、それは当然のことだろう。ただそういうことは一旦脇に置いて、一個人の立場で市子を捉えた場合でも、「マズいことしてるんだからダメに決まってる」としか判断できないとしたら、それはまた問題であるように私には感じられるのだ。

長谷川の認識では、2015年8月13日に失踪した時点におけるの市子の年齢は28歳。そして、その28年間の人生を想像することは、とても難しい。本作では2015年の他に、2008年から2010年に掛けての話、つまり、市子が20歳を迎えてから数年間の出来事が多く描かれる。そして何よりも、そこに至るまでの20年間の市子の来歴をリアルにイメージするのはあまりに難しいはずだと思う。

しかし、この記事では具体的なことに触れないと決めたので実感してもらいにくいと思うが、本作を観れば、「市子のような存在は、世の中に一定数いてもおかしくない」と誰もが感じられるはずだ。もちろん、映画『市子』とまったく同じような状況になることはないだろうが、「市子が抱えている根本的な困難さ」を有する人はたくさんいるように思う。同じように、「川辺家が抱えていた困難さ」とまったく同じということはないにせよ、似たような苦しさに囚われている家庭が存在することも、容易に想像できるはずだ。

だから私たちはまず、「”川辺市子”はフィクショナルな存在でも、誇張された人物でもない」と理解した上で本作を捉えるべきだと思う。そしてさらに、普通に生きていたらまず知る機会のない「”川辺市子”のような存在」について、映画を観たことをきっかけに色々と思考を巡らせてみた方がいいと考えているというわけだ。

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