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【衝撃】ミキ・デザキが映画『主戦場』で示す「慰安婦問題」の実相。歴史修正主義者の発言がヤバすぎ

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映画『主戦場』は、「『慰安婦問題』に関する問題」を扱いつつ、「『歴史修正主義者』のヤバさ」を浮き彫りにするドキュメンタリー映画である

私が本作『主戦場』を観たのは2022年のことだが、映画が製作されたのは2019年だそうで、3年ぶりの上映であるらしい。このような映画が公開されていたことはまったく知らなかった。実に興味深い作品である。

本作で扱われているのは、「日本軍がかつて韓国人女性に将兵の性の相手をさせていた問題」、いわゆる「慰安婦問題」だ。しかし、この表現は正確ではない。より正しくは、「『慰安婦問題』とは一体何なのか?」が取り上げられている作品なのである。日本でも度々報じられるように、この「慰安婦問題」は、今も日韓に横たわっている問題だ。そして本作は、「何故そんなことになっているのか?」という、「『慰安婦問題』を取り巻く状況」を扱う作品である。一方の側の意見を取り上げて主張するみたいなことかではなく、「『慰安婦問題』の全体像を包括的に捉えよう」としている作品なのだ。そういう意味で本作は、「一体何が問題視されているのか」を理解する上で非常に役立つと言えるだろう。

本作を製作したのは、日系アメリカ人YouTuberのミキ・デザキという人物だ。公式HPには、次のように書かれている。

あなたが「ネトウヨ」でもない限り、彼らをひどく憤らせた日系アメリカ人YouTuberのミキ・デザキを、おそらくご存知ないだろう。ネトウヨからの度重なる脅迫にも臆せず、彼らの主張にむしろ好奇心を掻き立てられたデザキは、日本人の多くが「もう蒸し返して欲しくない」と感じている慰安婦問題の渦中に自ら飛び込んでいった。

http://www.shusenjo.jp/

映画の冒頭では、彼がどうして「慰安婦問題」に関わることになったのか、その経緯が簡単にまとめられている。ざっくり要約すると「巻き込まれ事故」みたいな始まりだったそうだ。「慰安婦問題」に元から関心があったわけではなく、「慰安婦問題」の方が彼にぶつかってきたような状況だったという。それで「自ら飛び込んで」いって調べてみることにしたのだそうだ。

映画の最後で、彼は自身のことを「アメリカ人」と表現していた。もちろん、「慰安婦問題」は基本的に日本と韓国の問題である。つまり本作は、「元々関心を抱いていたわけではない問題について、日本でも韓国でもない視点から取材した作品」と言えるだろう。どちらの視点にも寄らない、かなり客観的な捉え方が出来ているのではないかと思う。「面白い」「面白くない」で括れるような作品ではないが、まったく知らなかった事実もたくさん扱われる映画であり、私にとってはとにかく非常に興味深い作品だった。

さてこの記事では、「本作を観た私が、『慰安婦問題』をどのように整理し、何を考えたのか」についてまとめていきたいと思う。ちなみに、本作を観る前の時点における私の「慰安婦問題」に関する知識は「ほぼゼロ」である。ドキュメンタリーやノンフィクションは好きなのだが、「慰安婦問題」に関するものに触れたことはない。そのため、「ニュース番組で取り上げられる程度の情報」しか知らないと言っていいと思う。なので、「この記事に書いたことはあくまでも、『本作を観た上で私が考えたこと』である」という点は理解しておいてほしい。

「何らかの問題」について思考する際に私が意識している「前提条件」について

それでは、いきなり「慰安婦問題」の話に触れるのではなく、まずは「何らかの問題について考えを深める際の前提条件」について書いていきたいと思う。興味がない方はもちろん読み飛ばしてもらって構わないが、基本的にこの記事では、これから書く前提条件を元に議論を進めていくつもりである。

さて、「問題の良し悪し」を判定する際には当然、「基準」が必要になるだろう。「基準」が明確ではない状態で良いとか悪いとか議論しても無駄である。例えば「大麻を使用することの是非」について議論するとして、「医療現場での使用なのか」「どの国で使用するのか」「誰が使用するのか」など様々な状況が想定できるし、それぞれに見合った「基準」が必要になるだろう。このように私は、「どのような『基準』によって是非を判断するのか」という視点を持つことが大事だと考えているのだ。

また、次の主張については状況によっても意見が分かれるだろうが、私は基本的に「その問題が発生した時点での『基準』」に沿って良し悪しが判断されるべきだと考えている。世の中で「問題」とされているものの中には、「『昔の行為』を『今の基準』で断罪している」という状況もあるだろう。確かに、「『昔の基準』が不適切だった」みたいなことは多々あるだろうし、それらを改善しながら良い未来を作っていくべきというのは大前提だ。しかしやはり、同時に私は、「その問題が発生した時点での『基準』に照らして是非が判断されるべきだ」とも考えているのである。この点については私も、状況次第で考えを変えるかもしれないと思っているが、可能な限りそのようなスタンスで生きていきたいと考えてもいるのだ。

さて、世の中には「是非を判断するための基準」が様々に存在するわけだが、「その『基準』が『法律』の場合は『証拠』が必要だ」というのが私の原則的な考えである。もう少し正確に書くと、「もしも『法的責任』を追求するのであれば『証拠』が必要だ」となるだろうか。「そんなことは当たり前だろう」と感じるかもしれないが、一応の念押しぐらいに捉えてほしい。

誤解されないように書いておくが、私は決して、「『証拠』が無いなら『責任追及』を諦めろ」などと主張しているのではない。「責任」には様々な種類があり、「道義的責任」などという表現も存在する。つまり、「『証拠』が無ければ『法的責任の追及』は諦めてもらう他ないが、『法的責任以外の追及』を行うことは可能」だと考えているというわけだ。証拠の有無に関係なく、当事者同士が和解や合意などを行うことは、一般社会でもよく行われていることだろう。なので、「不幸にして『証拠』が存在しない状況ならば、『法的責任の追及』は諦め、そうではない道を探るべき」だと考えているのである。

ただ、「慰安婦問題」など「過去の歴史」が問題視されている場合には、この条件は少し緩める必要があるだろう。というのも、本作『主戦場』の中で、「戦時中の日本軍の資料は、その70%が焼却されたと考えられている」みたいな説明がなされていたからだ。平時ならともかく、戦時中ともなれば、「適切な証拠保全」などまず望めなかっただろう。

そのため、「通常の裁判で必要とされるレベルの厳格な証拠」を求めるのは酷だと考えている。私の個人的な感覚では、「弱い証拠」、つまり「そのような出来事が起こったと強く推定させるような証拠」程度でも「法的責任」を問うことが出来ても良いのではないかと思う。ただ、証拠が有する立証能力の強弱はともかくとして、やはり何らかの「証拠」が存在しない限りは「法的責任の追及」は難しいと考えているというわけだ。

さて、その上で私は、「『証言』しか存在しない場合、それを『証拠』と見做すのは厳しい」という感覚を持っている。これは決して「過去の歴史」に関する問題に限らない。外国のことは知らないが、少なくとも日本では、「被告人の自白(証言)」は、強力な「証拠」と見做され、自白しか存在しない状況でも有罪判決が下される。しかし私は、そのような現状はやはりおかしいのではないかと感じてしまう。今では少なくなっているかもしれないが、この「自白至上主義」のために、恐らく多くの人が無実の罪で刑務所に入れられ、中には死刑に処された人もいるはずだ。

それがどんな場合であっても、「『証言』しか存在しない状況で『法的責任』を問うのは無理がある」と私は考えている。もちろん先程書いた通り、「証言」のみだとしても「法的責任以外の追及」は問題ないと思っているのだが、やはり「法的責任の追及」はすべきではないと考えているのだ。また、それが歴史の問題であればなおさら、「証言のみ」という状況に難しさを感じてしまいもする。というのも、脳科学や心理学などの本を結構読んできたのだが、その多くに「人の記憶は容易に書き換えられ得る」と書かれているからだ。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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