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【考察】映画『街の上で』(今泉力哉)が描く「男女の友情は成立する」的会話が超絶妙で素晴らしい(出演:若葉竜也、穂志もえか、古川琴音、中田青渚)

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今泉力哉監督の映画『街の上で』は、とにかく「会話の無駄」が素晴らしく、惚れ惚れしてしまった

いやーホントに、今泉力哉が素晴らしい。とにかく、本作『街の上で』もメチャクチャ良かったのだが、しかし私は、劇場公開されたタイミングでは本作を観なかった。この記事では、まずはその辺りの話から始めようと思う。

劇場公開された時点で、私は『街の上で』という映画の存在を知っていたのだが、特に観ようとは思わなかった。その時まで私は「今泉力哉」という映画監督の存在を知らず、作品もまったく観たことがなかったので、ポスタービジュアルぐらいしか判断材料がなかったわけだが、そのポスタービジュアルが「おしゃれクソ映画」っぽかったのである。「雰囲気やビジュアルは良さそうだが、特に大したことを描いているわけではない、なんとなくおしゃれなだけの映画」ぐらいの意味なのだが、私は本作をそのような内容だと判断してしまっていたのだ。

そしてその後私は、「今泉力哉」という映画監督の存在を知ることになる。最初に観たのは、映画『窓辺にて』だ。正直、何故観ようと思ったのか記憶にないが、とにかく素晴らしい作品で、そこから私は一気に「今泉力哉監督」に注目するようになった。そしてその後、映画『ちひろさん』を観てやはりズバズバと突き刺されてしまう。どちらの作品も人間の描き方が繊細で、さらに、社会を眺めるその眼差しに親近感が持てたのである。

このようにして今泉力哉を知った私は、1週間限定で再上映となった映画『街の上で』を観ることにしたというわけだ。そしてやはり、「観て良かった!」と思わせる素晴らしい作品だったのである。

この記事では、その素晴らしさを「会話の無駄」に焦点を当てて説明してみたいと思う。

映画『街の上で』は、「会話の無駄」がとにかく素晴らしい

私はほとんどYouTubeを観ないのだが、「YouTuberは、会話のテンポを良くするために、編集時に『会話の間』を削って詰めている」みたいな知識は持っている。要するに、「えー」とか「あー」みたいなことを言っている部分を削ったり、言い淀んだりした部分を詰めたりしているのだろう。

そしてそれは、私たちが普段している「自然な会話」とは異なるものだ。そこでそのような会話に、「YouTube的会話」という名前を付けてみよう。要するに、「YouTubeの動画では”自然に”感じられる会話」というわけだ。

そして同様に、「映画・ドラマ的会話」と名付けられる会話が存在すると私は考えている。つまり、「映画やドラマの中では”自然に”感じられる会話」というわけだ。

映画やドラマの中で展開される会話は普通、「無駄」が無い。そのことは、私たちが日常的にしている会話と比べてみれば明らかではないかと思う。台本があるから当然なのだが、すべての会話は”滑らかに”進んでいく。もし会話の中に「躓き」や「淀み」があるとすれば、それは「この会話には『躓き』や『淀み』がある」という情報を観る者に伝えるために用意されていると考えるべきで、つまりそれは決して「無駄」ではない。「全然中身の無い会話をしているなぁ」と感じる場面でも、「観る者にそう感じさせる意図がある」わけで、結局その会話は「無駄」ではないのである。

しかし、映画『街の上で』はとにかく、会話が「無駄」ばかりだった。そしてその点に、私はメチャクチャ驚かされてしまったのだ。

その時点で私が鑑賞済だった2作品、『窓辺にて』と『ちひろさん』は共に、そもそも会話が少なかったこともあり、「会話の無駄」に着目するような発想にはならなかった。そのこともきっと関係しているのだろう、映画『街の上で』を観て、私はとにかく「会話に無駄がありすぎる」ことに驚かされてしまったのである。今泉力哉は恐らく、「映像作品として提示出来るギリギリのラインまで『会話の無駄』を残す」というスタンスで映画を作っているのではないかと感じた。

「無駄」とは少し違う話に聞こえるかもしれないが、分かりやすい例を1つ出そう。本作『街の上で』でとても印象的だったのが、若葉竜也演じる主人公・荒川青が、会話の中で「えっ?」を多用することだ。実はこの「えっ?」の多用、映画『窓辺にて』でも同じことを感じた。『窓辺にて』では正直、この「えっ?」という反応は私にはあまり馴染まなかったのだが、恐らくそれは、全体の会話量が少なかったからだと思う。一方で、『街の上で』の中で荒川青が口にする「えっ?」には不自然さを感じなかった。

そしてそれは恐らく、本作中に「会話の無駄」があまねく行き届いているからではないかと思っている。

あまり意識に上らないだけで、私たちは普段の会話の中で、「えっ?」のような反応を頻繁にしているはずだ。にも拘らず、そういう反応が「不自然」に感じられないのは恐らく、「自然な会話」には色んな「無駄」が盛りだくさんだからだと私は考えている。よく言われることだろうが、「友人との普段の会話を録音して第三者に聞かせたら、たぶん何を話しているのかさっぱり理解できない」みたいなになると思う。「自然な会話」には、「無駄」が多いというわけだ。

しかし通常、「映画・ドラマ的会話」からは「無駄」が削ぎ落とされている。そのため普通は、「えっ?」のような反応が多用されると違和感を覚えてしまうはずだ。しかし本作の場合、それが「不自然」に感じられなかったのである。少なくとも、私にとってはそうだった。これはかなり特異な状況と言っていいと思う。

そんなわけで私は、「『映画・ドラマ的会話』ではない、かなり『自然な会話』に近いやり取りが映し出されている」という点にとにかく驚かされてしまったし、その点にこそ本作の素晴らしさを感じた。

「物語を展開させる」という要素を「会話」からは削ぎ落としている点が見事

さて、ここまで「会話の無駄」の話を深堀りしてきたが、この「無駄」について改めて説明してみると、「映画にとっての無駄」という意味になる。つまり、「当人同士はその会話に意味を感じているかもしれないが、映画内での役割は存在しない」というわけだ。

一般的に多くの場合、映像作品における「会話」には、「『登場人物の関係性』や『物語の展開』を描き出すためのツール」のような側面もあると言っていいだろう。例えば、専門的な知識が必要な作品であれば、「何の知識も持たない人物」を登場させることで、会話のやり取りを通じて必要な知識を観客に与えたりする。あるいは、「沈黙している2人」を映し出すことによって、「会話をしなくても場が成立する関係性であることを描く」みたいなパターンもあるだろう。このように「映像作品における『会話』」というのは、「観る者に対して何らかの『役割』を有している」と考えていいと私は思っている。

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