【死】映画『湯を沸かすほどの熱い愛』に号泣。「家族とは?」を問う物語と、タイトル通りのラストが見事
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「家族」も「死」も、「よくある捉え方」から外れてみれば違う生き方が見えてくる
もの凄く号泣させられた映画でした。自分でも、信じられないくらい。
泣ければ良い映画だ、なんて思ってるわけではありませんが、『湯を沸かすほどの熱い愛』はとにかく素晴らしい映画でした。
「死」はもっと、さらさらしたものであってほしい
私はこれまでずっと、誰かの「死」に感情が動いたり、心が乱れたりしたことがありません。大学時代の先輩や祖父母、あるいは少し前に父親も亡くしましたが、その度に、「自分の心の動かなさ」みたいなものに直面し、驚かされるのです。
昔は、そんな自分のことを「ダメだ」と考えていました。誰かが死んで「悲しい」と思えないなんて、人としてマズイんじゃないか、と思っていたわけです。
ただどこかのタイミングで、「別にそれでもいんじゃないか」と思うようになりました。無理にり悲しんだって仕方ありません。それに私は、「死」というものを軽んじているつもりもなかったので、「自分はこういう人間なんだ」と考えを切り替えたのです。
人の死に心が動かない理由には、色んな要素が絡んでいると思うので、何か1つ挙げることに意味はないでしょう。ただ確実に、「『私自身の死の際もそうであってほしい』と願っている」とは言えます。つまり、「私の死によって、感情が動かされてしまう人がいなければいい」と考えているのです。
私がとても嫌だなと感じるのは、「死」を尊重しているように見せて、実は「死」を遠ざけているだけの人です。「『死ぬ』なんて言うなよ」「『自分が死んだら』なんて話聞きたくない」みたいな言葉は、「『死』など考えられないほどあなたのことを大事に考えている」という意味として流通しているように思います。ただ、本当にそんな風に考えているのでしょうか? 私には、ただ「死」の話題を避けているようにしか見えません。
話題が「起こる確率の低いこと」であるならまだ理解できます。例えば、「戦争で人を殺す」というのは、少なくとも今の日本ではかなり起こる可能性が低い出来事でしょう。だから「そんな話したくない」と拒絶するのも自然だと思います。
ただ、「死」は誰にでも平等に訪れます。死なない人間はいませんし、死ぬ確率は100%です。そんな、「いつかは分からないけれど未来に確実に起こる出来事」の話題を避けることが、果たして「尊重」と言えるのか、私には疑問でしかありません。
私はもっと、日常的に当たり前のように「死」の話題に触れる方が自然だと感じるし、その方が「尊重」という言葉に近づくような気がしています。
さて、さらに穿った主張をしてみることにしましょう。
例えば、「葬儀をし、墓を立て、何周忌かで集まる」みたいな、当たり前のように行われている儀式は、私にはとても不自然なものに感じられます。もの凄く嫌な言い方をすれば、「そういう時だけ、言い訳のように故人を思い出せばいい」みたいなニュアンスを感じてしまうのです。
あるいは、「誰かの『死』に直面して悲しみを表明すること」は、「それまでの自分の不実を帳消しにする」ような振る舞いに見えてしまいます。繰り返しになりますが、人間はいつか必ず死ぬのだから、「誰かが死んで悲しい」と感じてしまうなら、「その人がいつ死んでも後悔せずにいられるような関係性」をまずは目指すべきではないか、と感じてしまうのです。もちろん毎日一緒にいたって死んだら悲しいのかもしれないし、毎日一緒にいたくてもそれが叶わない人もいるのでしょうが、「その人との関係性をサボっていた自分自身を許すために泣いている」みたいな人も中にはいるのではないか思っています。
あー、嫌な話になってきましたね。さすがに不快に感じる方もいるかもしれません。ただ、かなり少数だろうとは思いますが、私の言っていることに共感できるという方もいるはずだと信じています。
別に、「誰かの死を悲しむことが間違いだ」などと言っているわけではありません。そうではなくて、「『死』を『感情を喚起させるもの』と捉えると、必然的に『特別なもの』だと感じられてしまう。そしてそれゆえに、『死』が『日常』から遠いものになってしまっているのではないか」と提起したいだけです。
私が思うこの映画の素晴らしさは、まさにこの点、つまり「『死』を日常の中に組み込んでいく振る舞い」にあります。特に、映画のラストはあまりにも素晴らしいと感じました。もちろん、同じことを現実でやれば様々な問題が生じることは分かっています。それでも、「『死』を日常の中に組み込むことを、家族が当たり前のように共有している」という部分にグッときてしまいました。
その「死」が「家族」のものである場合、余計に「特別感」が出てしまい、そのことによって結果的に「死」は遠ざけられることになってしまうと私は考えています。果たしてそれは、本当に「唯一の正解」と言えるでしょうか? 「正解」であることを疑っているわけではありません。それもまた正解の1つだと認めた上で、別の正解は存在しないのか? と問いたいのです。
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