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【誠実】地下鉄サリン事件の被害者が荒木浩に密着。「贖罪」とは何かを考えさせる衝撃の映画:映画『AGANAI』

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「贖罪」「謝罪」には意味があるのだろうか? 意味があるとすれば、どんな意味だろうか?

「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」とはどんな映画か?

非常にインパクトのある舞台が整えられた映画だ。この映画では、

「地下鉄サリン事件の直接の被害者である監督・さかはらあつし」

「地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教にかつて所属しており、今は後継団体・アレフの広報部長である荒木浩」

が旅をする。言い方が下品だと分かっているが、この設定だけで「勝ち」だと思えるような、圧倒的なパワーを持つ作品だ。

さかはらあつしは、サリンが撒かれた電車に乗っており、今も辛い後遺症に苦しめられている。映画を観終わった後、監督によるトークショーが行われたが、そこで、

人前では無理して頑張るけど、人前じゃなくなったら急に体力がゼロになる。ストレスを感じると手足が痺れる

というような発言をしていた。事件から26年が経過してもなお、相当重度な後遺症に悩まされているということだ。

さて、この2人の背景から、映画が「厳しい雰囲気」になると予測する人もいるだろう。しかし、そうではない。最初こそぎこちなさはあるが、2人は「昔からの友人」のような雰囲気で旅を続けるのだ。

個人的に、とても印象的な場面があった。薄着のままやってきた荒木浩をユニクロに連れて行く場面があるのだが、その前の段階で監督が、「(こんな薄着で旅をさせるなんて)俺がいじめてるみたいやろ」と発言する。そしてそれを受けて荒木浩はこう返すのだ。

それはそうでしょう 笑

これはとても刺さる場面だった。映画の撮影前にどれだけのやり取りがあったのか分からないが、ある程度以上の信頼関係がなければ、この場面で「それはそうでしょう」とは、笑いながらだとしても言えないだろう。この場面で私は、「荒木浩はさかはらあつしという人物を根底の部分で信頼している」と理解したし、それ以降の彼の発言を、彼の発言通りに受け取る用意ができたと思えた。

その上で彼らの旅は、「贖罪とは一体なにか?」を考えさせる、実に濃密な対話だと感じさせられた。

「謝罪」に対する私の考え方

私は、「謝罪」をするのもされるのも得意ではない。する側になることも、される側になることも、できれば避けていたい人間だ。

この点を、少し詳しく掘り下げていこうと思う。

私は、「謝罪」には「過去向きのベクトル」と「未来向きのベクトル」があると考えている。具体的に言えば、「過去向きのベクトル」というのは、「あんなことをしてしまって申し訳ありませんでした」と過去の行為を詫びること、そして「未来向きのベクトル」というのは、「二度と同じことはしません」という未来への決意表明である。

そして私は、この両方を無意味だと感じている。

「過去向きのベクトル」は、必要性が理解できない。これは、自分が謝られる側でも同じだ。過去の行為について詫びられても、私には何の変化もない。一応、「なるほど、この人はきちんと、自らの過去の行為を『悪いことだった』と理解しているのだな」ということは伝わるが、それ自体さほど重要な情報ではない。

もちろん、「何を悪いと感じるか」という点でお互いの認識に齟齬がある場合には「認識に差があった」ことを理解し合う必要があると思う。しかしそういう場合でも私は、その認識をすり合わせるための会話や議論をすればいい、と感じてしまう。「認識がズレていた」ということであれば、それは必ずしも謝罪する側だけに非があるわけではない、と思うからだ。そういう意味でも、「過去向きのベクトル」はどうでもいいと感じる。

「未来向きのベクトル」に関しても同じような考えを持っている。確かに私は、何かトラブルが起こった際、「そのトラブルが二度と起こらないこと」を一番重視する。しかし、それを示すために「謝罪」が必要だろうか? 

私は、自分が謝罪される側だとしても、「改善案」を示してくれればいいと感じてしまう。「謝罪」などなくても、「今後こういう風に改善します。だから同じトラブルは二度と起こりません」と言ってくれれば、それで十分だ。

逆に言えば、「改善案」を出さないのに「謝罪」だけされてもムカついてしまうだろう。「謝罪」なんかどうでもいいから、「改善案」を出してくれ、と思ってしまう。

というような理由から、私は、「謝罪」に意味を感じることができない。

しかし一方で、世の中的には「謝罪」がとても重視されているように思うる。その雰囲気は、テレビやSNSなどから強く感じる。

著名人がトラブルなどを起こした際に、何故か「世間に対する謝罪」が要求される雰囲気がある。そういうトラブルの場合、「直接の被害者」がいるはずで、「世間」は特段の被害を受けていないのだから、そもそも「謝罪」が必要とされる風潮そのものが謎でしかない。それなのに「謝罪」の圧を強く出す世の中を見ていると、「やっぱり何かトラブルがあった時には謝罪しなければいけないんだなぁ」と感じさせられてしまう。

どうも世間は、「謝罪する=反省の意を示す」と理解するようだが、私にはこの理屈はよく分からない。「謝罪すること」と「反省していること」に相関関係があるとは思えないのだが、何故か世間は、一旦はそれで納得したいようだ。そして、「ま、謝罪したからいいでしょ」というような、これで一旦区切りですね、みたいな雰囲気が作られることになる。

その辺りの理屈が、私にはいつまで経っても理解できないままだ。

荒木浩の「謝罪しないという誠実さ」

この映画で非常に良かったと感じる点は、荒木浩が「安易な謝罪」をしないことだ。ここに私は、非常に大きな誠実さを感じた。

繰り返すが、共に旅をしているさかはらあつしは、地下鉄サリン事件で直接の被害を受け、今も後遺症に苦しんでいる人物だ。

そして荒木浩は、地下鉄サリン事件を起こす10ヶ月前にオウム真理教に入信し、地下鉄サリン事件の際には信者の一人であり、事件後にオウム真理教の広報部長となり、その後もアレフで広報部長を継続している人物である。

「明確な主義主張を持たない人間」なら、こんな状況では「安易な謝罪」に逃げてしまうだろう。その方が分かりやすいからだ。「自分が直接やったことではないが、所属していた団体が大きな事件を起こし、あなたは被害を受けた。そのことは申し訳ない」とでも言ってしまえば、今の日本社会では、「ま、謝罪したからいいでしょ」という空気に移行する可能性はある。その方が楽だと考える人はきっとたくさんいるはずだ。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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