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【葛藤】正義とは何かを突きつける戦争映画。80人を救うために1人の少女を殺すボタンを押せるか?:『アイ・イン・ザ・スカイ』

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「正義を実現する」ためには、「誤った問い」にも「正しい答え」を導き出さなければならないのだろうか?

「正しい答えを導くこと」の重要さは、誰もが理解していることだろう。しかし1つ、忘れがちなポイントがある。「それは答えるのに相応しい『問い』なのか」だ。世の中には、「問い」そのものが誤りである場合も多くある。そのような場合、「いかにして『正しい答え』に辿り着くか」よりも、「それは『誤った問い』だと指摘すること」の方が重要だと言えるだろう。

しかし時には、「誤った問い」であると分かっていながら、それに答えを出さなければならないこともある。特にそれは、「正義」に関わる状況で現れることが多いだろう。

「『自分(たち)が正しい』と思い込むこと」こそが「正義」の一側面と言っていい、だとすれば「正義」は容易に対立しうる。世界情勢であれ家庭であれ、「正義」が対立する場面は様々に思い浮かぶだろう。

そして、「国家」や「人命」などが背景となる「正義」の実現においては、「答えるのにとても相応しいとは思えない問い」に答えなければならない状況に直面することもあるはずだ。

この映画では、

80人以上の人間が死ぬかもしれない状況を回避するために、1人の少女を殺すべきか

という状況が立ち現れる。これは明らかに「誤った問い」であり、答えるのに相応しいとは思えないものだ。しかし、この「誤った問い」に対して、何らかの答えを導き出すことが求められてしまう。

あなたなら、どう決断するだろうか?

似たような問いに以前、マイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』(早川書房)の中で出会ったことがある。こちらの例では「暴走機関車」が登場し、「暴走機関車」の先にいる5人を助けるために、1人の命を犠牲にすることは「正義」と言えるかが問われていた。

当然だが、置かれた立場によって答えは変わってくる。先ほどの「暴走機関車」の例の場合だと、「機関車の進む方向を、レールを切り替えることで5人いる方から1人いる方に変える」という手段には大きな抵抗は感じないが、「橋の上から誰かの背中を押し、機関車に衝突させることで止める」という手段には拒絶感を抱く人が多いらしい。どちらも、「自分の行動によって、5人を救い、1人を殺す」ことには変わりないのだが、やはり直接自分で手を下すかどうかは重要な要素になるというわけだ。

映画では、無人偵察機に搭載された兵器で民家を爆撃するか否かの決断が迫られる。民家を爆撃しなければ80人以上死亡する可能性があるが、民家を爆撃すれば1人の少女がほぼ間違いなく命を落とす、という状況だ。この場面でも同じように、自分で直接手を下すかどうかで葛藤の質が変わるだろう。そして映画では、「決断を下す者」と「兵器のスイッチを押す者」が別なのだ。

私が「決断を下す者」ならば、もちろん大きな葛藤を抱きつつではあるが、最終的に何らかの「答え」を導き出せるのではないかと思う。自分がどのような決断をしようが、人の命が奪われることには変わりはない。だったら、その被害が最小限に抑えられる決断をしようと考える気がする。

しかし、自分が「兵器のスイッチを押す者」だったら、きっと同じようには考えられないだろう。自分がスイッチを押さなければ、どこか別の場所で80人が命を落とす、そのことはもちろん理解している。しかしだからと言って、自分のこの手で少女を殺すことなどできるのか。

軍である以上、命令は絶対だろうし、そもそも「兵器のスイッチを押す者」には「考える余地」など認められていないとは思う。しかしだからといって、「命令されたんでサクッとスイッチ押します」なんて振る舞いができるはずもないだろう。最終的にスイッチを押さなければならないのだとしても、せめて自分なりに最低限の納得をした上で行動したいはずだ。

そんな状況で、どのような決断ができるだろうか?

「このような『問い』に直面する機会などないのだから考える必要はない」と思っているとしたら、それは考えが浅いと言うべきだろう。例えばコロナ禍においては、「コロナウイルスによる死」と「経済的な苦境による死」のどちらをより避けるべきかという対立が存在する。どちらの主張も「正義」であり、また「人命」が関係するものだ。「このような『問い』に向き合わなければならない状況そのもの」が「誤り」なのだと言うしかないが、「『誤った問い』だから答えなくていい」というわけでもない。我々は、無理矢理にでも何らかの答えを導き出さなければならないのである。

戦争の話ではあるが、この映画で突きつけられる「問い」は、私たちの日常にも関係するというわけだ。

「戦争」は「会議室」で起こっている

さらにこの映画にはもう1つ、現代的な背景が存在する。それは、「戦争を会議室で行っている」という点である。かの有名なセリフをオマージュすれば、「戦争は現場で起きてるんじゃない。会議室で起きてるんだ」となるだろう。

兵器を載せた無人偵察機を操縦する人物は、紛争地にはいない。上空2万フィートからの「現場映像」を見ながら、遠く離れた場所で操縦しているのだ。

だから、「決断する者」も「兵器のスイッチを押す者」も、「絶対に自分の命が奪われない」と分かっていることになる。

一昔前の戦争であれば、「敵を殺す」のは「自分の命を失う」覚悟で行うものだったはずだ。そもそも「戦争」という状況が「誤り」なのだが、しかしそれでも、「自分の命が奪われる可能性を有しているからこそ、他人の命を奪うことも成り立ち得る」という感覚は私の中にある。正しいとは思えないイカれた状況をなんとか無理やり肯定するとしたら、「自分の命も危険にさらしているという対等さ」という理屈くらいしかないだろう。

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