見出し画像

【真実?】佐村河内守のゴーストライター騒動に森達也が斬り込んだ『FAKE』は我々に何を問うか?

完全版はこちらからご覧いただけます


モンスターは「佐村河内守」か、それとも「新垣隆」か。「『真実』の難しさ」を森達也が切り取る

佐村河内守という名前を覚えているだろうか。耳が聞こえない作曲家として一世を風靡したが、実は新垣隆というゴーストライターが作曲していたと報じられ、一時期メディアを騒がせた。

当時の報道を見ていた人のほとんどが、「新垣隆は普通の人、佐村河内守はモンスター」だと思っただろう。私もそう感じた。佐村河内守が嘘をついていたんだろう、と。

しかしこの映画を観て、その確信が揺らいだ。もしかしたら「佐村河内守は普通の人、新垣隆はモンスター」という可能性もあるのかもしれない。

そう思わされる作品だ。

「森達也」という映画監督と、彼のスタンスについて

森達也の著作の感想は、2つ書いたことがある。

どちらもオウム真理教をテーマに据えた作品であり、元々『A』という本と同名タイトルの映画から始まっているのだが、私はそれを観たことがない。なので、『FAKE』が、初めて触れる森達也の映画である。

映画を観るのは初めてだが、『A』『A3』という著作を読んで、「森達也のドキュメンタリーに対する考え方」や「彼が『真実』をどう捉えているか」などはなんとなく理解しているつもりだ。ざっくり書くと、

森達也のドキュメンタリーには、常に「揺らぎ」が存在し、森達也はその「揺らぎ」に自覚的である

となるだろうか。

ドキュメンタリーでもノンフィクションでもニュースでもなんでもそうだが、何らかの「事実」を扱うメディアは、「このような捉え方が正しい」という輪郭を無自覚に(あるいは自覚的に)押し付けたり、あるいは「これは正しい/間違っている」などの結論を決めつけたりすることがあると思う。

そこに私は、「『事実』というのは1つであり、揺るがない」という価値観を感じる。確かにそれも1つの捉え方だとは思う。しかし私は、どの方向、どういう切り口で見るかによって「事実」の捉え方は変わると思っているし、そういう感覚を持たずに「事実」を報じる状況を怖いと感じてしまうのだ。

『A』の中で森達也はこんな風に書いている。

事実と報道が乖離するのは必然なのだ。今日この撮影だって、もし作品になったとしたら、事実とは違うと感じる人はたぶん何人も出てくる。表現とは本質的にそういうものだ。絶対的な客観性など存在しないのだから、人それぞれの思考や感受性が異なるように、事実も様々だ。その場にいる人間の数だけ事実が存在する。ただ少なくとも、表現に依拠する人間としては、自分が感知した事実には誠実でありたいと思う。事実が真実に昇華するのはたぶんそんな瞬間だ。

「A」(森達也/KADOKAWA)

ドキュメンタリーの仕事は、客観的な事実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。

「A」(森達也/KADOKAWA)

元々テレビの制作会社で働いていた森達也は、メディアのあり方に疑問を抱いていた。そして、『A』という作品で「オウム真理教の内部から社会を見る」という経験をしたことによって、「『事実』とは結局、主観的なものでしかありえない」という感覚に至ったのだろうと思う。

この映画で森達也は、佐村河内夫妻の生活に密着し続け、「観察者」として「佐村河内守の真実」を切り取っていく。そしてその過程で、いわゆる「ゴースト問題」(佐村河内守はこの表現を嫌がっていたが)における2つの大きな問題に、直接・間接に解答を与えるのだ。

もちろんそれは、「森達也が主観的に切り取った事実」である。ここまでの説明で理解してもらえると思うが、それは決して「森達也が恣意的に情報を操作し事実を捻じ曲げた」ということではない。「森達也は、自分が切り取った『事実』が主観的なものであると自覚している」という意味だ。

だからこそ森達也のドキュメンタリーには、「これは事実なのか、そうではないのか」という「揺らぎ」が内在することとなる。そしてその「揺らぎ」こそが、逆説的な形で「真実性」を高めているように私には感じられるのだ。

しかしそれも、受け取る人次第でしかない。そしてこの点に、森達也のドキュメンタリーの特徴があると私は思う。

佐村河内守は本当に耳が聞こえないのか?

佐村河内守は自身の聴覚について、「感音性難聴」だと説明している。これは簡単に説明すると、「音は届くが、会話の内容が理解できるほどには聞こえない」という状態だそうだ。

映画を観た私は基本的に、「佐村河内守が感音性難聴だと信じる」というスタンスを取る。つまり、当時マスコミが報じたように「耳が聞こえているのに聞こえていないフリをしている」と受け取るのではなく、「本当に聴覚に問題を抱えている」と捉えるということだ。

その理由は、この映画の撮影手法にある。

既に少し触れたが、この映画は、森達也が佐村河内夫妻の日常に密着する形で撮影された。「情熱大陸」(TBS系列)のようなイメージである。実際に映画として使われた場面は全体の一部だろうが、恐らくかなり長い時間に渡ってカメラを回し続けたことだろう。

そしてその長期間ずっと、「本当は耳が聞こえているのに聞こえていないフリをする」のは不可能だろう、というのが私の感触だ。

佐村河内守は基本的に、奥さんに手話通訳してもらうことで他者との会話を成立させている。ゆっくり喋ってもらえれば、口の動きから発言が理解できることもあるようだが、通常は奥さんの手話なしには会話は成り立たない。そして、もしこれが「世間や森達也を欺くための偽装」だとした場合、長期間ボロを出さずに貫き通すことは不可能だろう、と思うのだ。

映画の中で佐村河内守は、

一連の報道によって、誰を一番傷つけたかって言うと、それは同じ聴覚の障害を持つ多くの人達です

と語っていた。確かに、佐村河内守が「感音性難聴」であるのだとして、彼が「聞こえないフリをしている嘘つきだ」と糾弾されている状況は、他の「感音性難聴」の人を傷つけていることになるだろう。

記者会見の場でも「感音性難聴」に関する資料を配っていたのだが、メディアはその資料の中から、「佐村河内守の聴力には問題がない」と受け取れるような箇所だけを繋ぎ合わせて報道した、と憤っていた。自身の状況に対する怒りは当然として、佐村河内守は、聴覚障害者への無理解に対しても憤りを露わにしていたのだ。

映画には、自身も聴覚障害者であり、聴覚障害者へのトレーニングも行っている前川修寛という人物が登場する。そして映画の中で、森達也が前川氏に、

聴覚障害者にとって……、いや前川さんにとってでいいです、前川さんにとって音楽は意味がありますか?

と質問する場面が印象的だった。これは要するに、「佐村河内守が聴覚障害者であるとして、音楽を聴いたり作曲したりすることに意味があるのか」について、佐村河内守以外の人物の証言でも確認したい、という意図でなされたものだろう。

この質問に対して前川氏は「はい」と答え、補聴器につけることでiPodなどの音楽を聴くことが可能なオプションを見せてくれもする。

前川氏は、こんな風に言っていた。流れてくる音楽のすべてが聴こえているわけではないと分かってはいるが、それが欠落した音楽だと認識した上で「音楽を聴く」という行為はする。音を口に出すことはできないものの、メロディは頭の中にあるのだ、と。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

4,436字

¥ 100

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?