![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/150517132/rectangle_large_type_2_a821be26249e40351b5f1586aa2f4a28.jpeg?width=1200)
【あらすじ】濱口竜介監督『偶然と想像』は、「脚本」と「役者」のみで成り立つ凄まじい映画。天才だと思う
完全版はこちらからご覧いただけます
「動き」も「感情」も「名のある俳優」も排し、「脚本」だけで観客を惹きつけるとんでもない傑作
私はこの『偶然と想像』という映画を、絶対に観るまいと考えていました。というのも、予告の映像もポスターも非常にオシャレで、正直、私が観て面白いと感じるタイプの映画ではなさそうな気がしていたのです。
考えが変わったきっかけは、映画『ドライブ・マイ・カー』を観たことです。
私は『ドライブ・マイ・カー』も絶対に観ないぞと決めていました。しかし観てみると、あまりにも素晴らしい作品で驚かされてしまいます。そして、『偶然と想像』が同じ濱口竜介監督作品だと知り、そこで初めて「観よう」という気持ちに変わったというわけです。
いやー、ホントに凄かったです。衝撃的と言っていいほど、えげつない面白さでした。
「脚本」と「役者」のみで成立してしまうことの凄さ
具体的に映画製作の裏側を知っているわけではありませんが、単純に想像しても、「映画」を構成する要素はたくさん思い浮かぶでしょう。舞台装置、照明、音楽、衣装、CG、カット割りなどなど、いくつもの要素を巧みに組み合わせることで、「映画」は存在しているわけです。
しかし『偶然と想像』は、映画を構成する要素を極端に制約していると感じました。具体的には、「脚本」と「役者」に全振りしている、という印象です。しかも、「役者」の存在は不可欠とはいえ、決して世間的に知られた名のある俳優が出てくるわけではありません。そういう意味では、「脚本」しかない映画という言い方もできるでしょう。
この映画はとにかく、「動き」と「感情」が少ないことが特徴だと思います。いくつか観た濱口竜介作品に共通する点ではありますが、特にこの映画では「動き」の少なさが際立っていると感じました。
映画は3話オムニバスで、関連性のない3つの物語が収録されているのですが、どの話もほぼ場面が固定されています。「第一話 魔法(よりもっと不確か)」では「タクシー」と「オフィス」、「第二話 扉は開けたままで」では「アパートの一室」と「大学の教授室」、「第三話 もう一度」では「駅前」と「一軒家のリビング」というように、ほぼその中だけで物語が展開されていくのです。
また、そんな固定された空間の中で、あまりカット割りがされない、長回しの場面が続いていきます。さらにその中で、役者はほとんど動きません。つまり観客は、「固定カメラの向こう側で、役者が喋っているのをひたすら聞く」という映画鑑賞になるというわけです。全体的に「舞台演劇」という印象が強く、ラジオドラマでも成立させられるようにも思います。
まさに「脚本」だけで勝負していると言っていいでしょう。
そしてさらに、そんな「動き」が制約された環境の中で、「感情」さえも抑制されてしまいます。これは濱口竜介監督がよくやる手法のようです。詳しくは『ドライブ・マイ・カー』の記事に書きましたが、脚本を読み合わせる段階では、役者に「感情を乗せずにセリフを言う」ように指示するといいます。
『偶然と想像』は、『ドライブ・マイ・カー』と比べればそこまでではありませんが、しかしごく一般的な映画とは比べ物にならないほど感情が排除されていることは間違いありません。そのあまりに特異なやり方ゆえに、「感情が乗っている場面の方が嘘臭く感じられる」という逆転の感覚に陥ることさえあります。
少し脱線しますが、このような「感情がないように見えるのに成立する」「感情がある場面は嘘っぽく見える」という捉えられ方は、非常に現代的なのかもしれません。今の時代、個人が写真や映像で発信できるメディアが非常に多いので、「動きや声のトーンで何かを伝える情報」に溢れていると言えるでしょう。そして、多くの人がそのことに食傷気味になっているのかもしれません。時代の感覚の針が一方に振り切れすぎて、「感情の強要に疲れた」と感じている人が少なくない可能性があるわけです。
だからこそ、「感情が乗らない発信の方がむしろリアル」という受け取られ方が成立するのかもしれない、とも感じました。
話を戻しましょう。ここまで書いてきたように『偶然と想像』は、「動き」と「感情」が極端に排除されています。それを踏まえてこの映画の「見え方」をまとめると以下のようにまとめられるでしょう。
名も知らぬ役者が、「感情」の乗らないセリフ回しで演技をする、動作やカット割りなどの「動き」が少ない映画
そしてそんな映画が、素晴らしいとしか言いようのない作品に仕上がっているという事実に、とにかく驚愕させられてしまいました。
そしてそれを成立させる最大にして唯一の要素が「脚本」だというわけです。
もちろん「脚本」だけあっても、それを適切に演じてくれる「役者」がいなければどうにもなりません。しかしこの映画では、まず何よりも「脚本」の存在があまりに強烈であり、その素晴らしさに驚愕させられてしまうのです。
それではここからは、それぞれの作品の内容に触れていこうと思います。
「第一話 魔法(よりもっと不確か)」
3話の中で一番好きな話がこの「魔法(よりもっと不確か)」です。この話は「脚本」だけではなく、古川琴音という女優の存在感や、人間の気持ちが複雑に交錯する雰囲気など、いくつかの要素が絡まり合って私好みの作品になっていると感じます。
何よりまず素晴らしかったのは、冒頭からしばらくの間延々と続く、女性2人のタクシー内での会話です。この会話、永遠に聞いていられると感じるほど、私は好きでした。
正直内容は他愛のないもので、モデルの女性と、その親友のヘアメイクの女性が恋バナをしているにすぎません。ヘアメイクの女性は、「最近知り合った男性と15時間も喋り続けてしまった」そうで、正直まだ恋に発展しているとは言えないその手前の話を、モデルの女性が相槌を打ちながらずっと聞いているというシーンです。元々は仕事の打ち合わせで会ったのだけれど、早々にその仕事は引き受けないことに決めた、でもそこから話が続いてしまい、気づいたら15時間経っていた、自分でも「不思議」としか言いようがない時間だった、とヘアメイクの女性はそれまで経験したことがない出来事を親友に聞いてもらいたくて話し続けます。
この2人の会話がとにかく絶妙なのです。
これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます
ここから先は
¥ 100
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?