【あらすじ】映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を観てくれ!現代の人間関係の教科書的作品だ(出演:細田佳央太、駒井蓮、新谷ゆづみ)
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映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』はあまりに衝撃的だった。大げさではなく、現代を生きるあらゆる人に観てほしい教科書的作品だ
メチャクチャ素晴らしい映画でした。ただ、友人からタイトルを聞くまでまったくノーマークの作品だったし、そのままだったらまず観なかっただろうと思います。普段から、先入観で観る映画を制約してはいないつもりですが、それでも、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を観ようとは思わなかった可能性の方が高かったでしょう。教えてくれた友人に感謝しているし、こういう出会いがあるから、自分の興味関心だけで何かを選ぶのは良くないと改めて感じさせられた作品でもあります。
正直、映画を観始めてからしばらくの間は、「一体ここから、どう物語が展開していくんだ?」みたいに感じていました。そのような状態が、体感では1時間ぐらい続いたように思います。「ぬいぐるみに話しかける」ことが活動内容の大学サークルを舞台にした作品であり、最初は「ちょっと変わった青春モノなのか?」ぐらいに思っていました。しかし中盤から後半に掛けて、「なるほど、そういう話なのか!」という展開になっていくのです。私の頭の中に普段からある問題意識がズバリ扱われていることもあって、その刺さり具合はえげつないほどでした。
とにかく、映画全体が描こうとしている「何か」にとても共感できてしまったというわけです。普段あまりこんな風には思わないのですが、「この映画の監督や脚本家とメチャクチャ喋りたい」と感じました。
まずは内容紹介
七森剛志は、京都の大学に入学した。彼は、「男らしい振る舞い」みたいなものにどうしても違和感を覚えてしまうことが多く、そのせいで高校時代にも「不器用な瞬間」を経験している。自分自身の存在やアイデンティティみたいなものがあやふやで、彼自身モヤモヤすることが多いが、しかし自身のスタンスが「間違っている」と思っているわけでもない。
七森は、学科の懇親会である女性と意気投合した。麦戸と名乗ったその女性とは、空気感が似ている感じがする。「男らしさ」みたいなことを感じずに一緒にいられる心地良さもあり、すぐに仲良くなった。
2人は、学内に貼られたサークル募集のポスターを見ながら、「ぬいぐるみサークル」に目を留める。ぬいぐるみと喋るサークルらしいが、良く分からない。とりあえず見学に行くと、まさにそのままのサークルだった。部室には大量のぬいぐるみがあり、部員たちはそれぞれぬいぐるみに話しかけている。部室にいる時は、基本的にヘッドホンをするのがルール。他の部員がぬいぐるみに何を話しているのかを聞かないためだ。
2人はぬいぐるみサークル(ぬいサー)に入ることに決めた。同じタイミングで入った白城ゆいも含め、ぬいサーのメンバーと仲良くなっていく。
ぬいサーの部員たちがそれぞれに秘めている秘密や葛藤、ぬいサーに所属しながらぬいぐるみには話しかけない白城、唐突に提示される「不在」、そして七森が抱えているどうにもしようがない「息苦しさ」。様々な要素を取り込みつつ、世間の「それって当たり前だよね」からするりと抜け落ちてしまう者たちが、「他者といかに関わるか」に悩む様が描き出されていく。
「『人に話すのが難しい』から『ぬいぐるみに話す』」という設定の絶妙さ
いきなり、映画とは関係のない話から始めましょう。
ちょうどこの映画を観る前の日の夜、寝ようかなと思っていた直前に女友達からLINE来ました。ざっくり要約すれば、「生きづらくてしんどい」という内容です。さらにそのLINEには、「こんなマイナスな話は人を不愉快にするだけですよねすいません」「休みの前の日なのにこんな話してごめんなさい」みたいなことも書かれていました。その子は、時々メンタルが落ちたような状態になるので、「しんどい感情は、出せる時に出せるだけ出しておいた方がいいよ」みたいに言うようにしています。
その子は本当に「こんな話してすいません」みたいに思っているのだけど、同時に、「誰かに話を聞いてもらわずにはいられない」という状態にもあるわけです。そういう時、自分で言うのも何ですが、私は結構喋りやすい相手なのだと思います。というか昔から、「こいつには何でも話せる」という雰囲気が出せるように頑張ってきたつもりなので、そういう意識的な振る舞いが上手くいっているのでしょう。
ただ、これも「自分で言うのはなんですが」という話になってしまいますが、私のように「何を話しても大丈夫」みたいな雰囲気を持っている人は、なかなかいないと思います(本当に、こんなこと自分では言いたくないのですが)。私は色んな人から、「他人に相談して失敗した話」を聞く機会もあるのですが、やはり「誰かの相談事を、その人が望むようなスタンスで聞く」というのは、かなり難しいことのようです。特に「マイノリティ的マインドを持つ人」の場合、マジョリティ側の人に話が通じないのは当然として、マイノリティ同士であったとしても、問題や葛藤が重ならないと上手く話が通じなかったりもします。そんなわけで、「自分の話を良い感じに聞いてくれる人」を見つけるのはかなり難しいというわけです。
だからこそ、「ぬいぐるみに話す」という設定は非常に絶妙だと感じました。もちろん、決してベストな解決策ではありませんが、しかしかなりベターだと言えるでしょう。
また、「ぬいぐるみに話すこと」の良さとしては、「話す側の負担が減る」という点も挙げられます。私にLINEをくれた子のように、「こんな話をして申し訳ない」と感じてしまう人は結構いるからです。あるいは、映画の中でぬいサーのメンバーが、「誰かに辛い話を聞いてもらうと、その相手のことを辛い気持ちにさせてしまう。だからぬいぐるみに聞いてもらうんだ」と口にする場面もありました。「上手く話を聞いてくれる人」を探すのは難しいのだから、だったら、「相手に負担をかけずに済む」方法を選択するというのは、理にかなっていると思いました。
そんなわけで、「ぬいぐるみに話す」というこの設定はとても絶妙だと思うし、さらに私は『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の随所でそのような「絶妙さ」を感じました。設定も、登場人物のキャラクターも、物語の展開も、すべて良いのですが、中でもやはり「会話」が素晴らしかったです。「沈黙」や「間」も含めた彼らの会話が、もう「絶妙」としか言えないもので、会話を聞いているだけでも心地よさを感じるような作品でした。私はもう40歳のおじさんなので説得力は皆無ですが、この映画の会話も含めた全体の雰囲気は、若い世代にもかなりしっくりくると思うので、是非観てほしいです。
「マイノリティ」という言葉の「狭さ」
映画を観ながら、普段から問題意識を抱いている様々な事柄について改めて考えさせられました。その1つが「『マイノリティ』という言葉の『狭さ』」です。私は普段から、「マイノリティ」という言葉が使われる状況で、「なんか違うんだよなぁ」という違和感を抱いてしまうことが多く、その点についての思考が刺激されました。
「マイノリティ」という言葉は一般的に、「『分かりやすい何か』を持っている人」という意味で使われることが多いでしょう。「分かりやすい何か」というのはつまり、「障害者」「LGBTQ」などを指します。大雑把に、「名称が与えられている概念」のことを「分かりやすい何か」と呼んでいると考えてもらえばいいでしょう。
誤解されたくないのであらかじめ書いておきますが、私は決して、「障害者やLGBTQは『分かりやすいマイノリティ』である」などと言っているのではありません。そうではなく、「いわゆる『マジョリティ』の人たちが『マイノリティ』という言葉を使う際に、『障害者』や『LGBTQ』のような『名称が与えられている概念』しか想定してないんじゃないだろうか」と疑問を呈したいのです。そういう状況に出くわす度に、「それは何か違うんじゃないか」と感じてしまいます。
そういう「『分かりやすい何か』を持っている人」はもちろん「マイノリティ」に含めていいでしょう。「含めていいでしょう」と書いたのは、「『分かりやすい何か』を持っている人」の中にも「マイノリティ」に分類されたくないと思っている人が一定数いると考えているからです。私は基本的に、「マイノリティか否か」を決めるのは「その人の気分」次第だと思っているので(だからこの記事では、「マイノリティ的マインド」という表現を使っています)、「分かりやすい何か」を持っていたとしても、マインドが「マイノリティ」でなければ、私の中ではその人は「マイノリティ」ではありません。
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